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最後の事件記者 p.042-043 ミーハーの心を知る記者

最後の事件記者 p.042-043 新聞記者の適性の第一は、インテリでないことである。インテリであると、落伍すること請け合いである。インテリの記者には、表現力はあっても、取材力がない。
最後の事件記者 p.042-043 新聞記者の適性の第一は、インテリでないことである。インテリであると、落伍すること請け合いである。インテリの記者には、表現力はあっても、取材力がない。

この防衛庁高官が、二十一歳のアンマさん(もちろん、正眼の娘さん)に、いわゆる襲いかかってきたことだけは確かである。

議員だからインテリではない、といったような逆説はやめて、国防大臣ともいうべき人だか

ら、いわゆる知識人の範ちゅうには入る人物である。このような人でさえ、本音を吐けば、寝床に傍近く侍して、身体のマッサージをする娘さんに、何かを強要したくなるのである。私には、この老人の心理がよく判るから、ここで非難しようとするのではない。

つまり、東大の大学院学生であるK氏も、本音をはけば、食うのに困ってきて不安を感ずる一人の亭主にすぎないのである。しかも、インテリだから、歯を食いしばって、それに耐えて行こうとする、根性もないのである。

新聞記者の適性

新聞記者の適性の第一は、インテリでないことである。インテリであると、落伍すること請け合いである。インテリの記者には、表現力はあっても、取材力がない。ネタを取れるということと、記事が書けるということとは、車の両輪のようなものである。ことに、事件記者には、インテリはダメである。インテリの記者は、企画記事か発表記事、つまり取材競争のない記事しか書けないのだ。

一例をあげると、事件記者の取材の一番大きな対象は、お巡りさんである。お巡りさんはイン

テリではなく、ミーちゃんハーちゃんと同じ庶民、大衆の一部で、ただ国家権力を行使し得る、職業的専門家である。

ミーハーの心を知らなくては、ミーハーから取材はできない。お巡りさんの気持と、通じあい、交りあうものがなければ、彼らが公務員法でしばられている、職務上の秘密を洩らすであろうか。発表を聞いて文字にすることは取材とはいわない。

その端的なケースが、捜査一課、つまり、コロシ、タタキを担当している記者たちである。テレビの事件記者の中で、スターとして登場してくる彼らは、新聞記者の花形の如くに扱われている。

しかし、現実にはどうだろうか。一課記者は、新聞記者仲間では、内心「フフン、デカか」と軽蔑されている。あるいは、気に喰わない一課記者を飛ばす時の文句は、「お前はデカか?新聞記者なんだぜ、デカになってしまってはダメじゃないか」という。

だが、殺人事件が起ると、実際に各社を抜いてスクープするのは、そのデカみたいな記者である。あまり知性の感じられない、いわばデカになり切ったような記者である。本物のデカたちと、共通の広場があるから、スクープできるのである。