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編集長ひとり語り第64回 デキチャッタ婚の誤謬

編集長ひとり語り第64回 デキチャッタ婚の誤謬 平成13年(2001)11月22日 画像は三田和夫80歳(左から2人目 三田和夫80歳の誕生日2001.06.11)
編集長ひとり語り第64回 デキチャッタ婚の誤謬 平成13年(2001)11月22日 画像は三田和夫80歳(左から2人目 三田和夫80歳の誕生日2001.06.11)
2001年6月11日の80歳誕生日を前に知人たちに送ったはがき
2001年6月11日の80歳誕生日を前に知人たち・企業に送ったはがき(2001.06.01付)
2001年6月11日の80歳誕生日を前に知人たちに送ったはがき(宛名面)
2001年6月11日の80歳誕生日を前に知人たち・企業に送ったはがき(宛名面)

■□■デキチャッタ婚の誤謬■□■第64回■□■ 平成13年11月22日

さる11月9日午後、テレビのワイドショウの「特ダネファイル」で、芸能レポーターの石川なる人物が、話題になった女性タレントに関して、「…将来、デキチャッタ婚をしたい、といっていた」と語った。この話が事実なら、そんなことをいう女も女だが、シタリ顔で“デキチャッタ婚”を吹聴するこのレポーターもレポーターである。

この数年、誰がいい出したのか不明だが、“デキチャッタ婚”なる言葉が流行りはじめ、若いカップルの女性が、得意気に“デキチャッタ婚”です、などとほざいたりする。いうなれば、婚前性交のことで、しかも、十分に準備しないから、意に反して妊娠してしまった、ということではないか。

“意に反した妊娠”というなら、そういう妊娠をしないよう注意すべきであるが、男がまだフラフラしている時には、結婚を迫る手段として利用できるのだから、“意に反して”いない。生まれる前から、男女の駆け引きに利用されるのだから、赤ちゃんにとっては迷惑至極な話だ。

私は、このあたりに、いまの親の子殺し、子の親殺しの原因があると思う。つまり、親子の情愛が、そもそもから芽生えていないのである。互いに生活の利便に伴う道具なのである。尊敬の念などカケラもないだろう。

婚前性交が必ずしも非難されるべきものではあるまい。しかし、「子作り」はまったく別物である。夫婦の愛情にあふれた行為から、妊娠へと導かれるものであり、男女はこれから「人の子の親」になる重大な責任を自覚し、そのための努力をしなければならない。それが親子関係の基盤なのだ。

私は、親は子供の3歳くらいまで、惜しみなく愛情をそそぎ、親子の情愛の基礎を作れといいたい。それができた後は、容易には崩れない。いい親子関係が持続する。事実、私には、男、男、男、女と4人の子供がいるが、家族の事を重視せずに読売を退社したり、出版事業に失敗したりと、かなり野放図な生活を重ねてきたが、“殺され”もせず、“見捨てられ”もせず、現在も良好な親子関係が続いている。

それは、妊娠、いやそれ以前のセックスの段階から、「人の子の親」という自覚に、責任を覚えていたからであろう。そこが“デキチャッタ婚”との根本的な差異である。愛情からスタートするか、利便性のみに走るか…。

戦争というのも、兵士の多くが対面する“戦闘”から成り立っている。そこでは、自分が相手を殺さなければ、自分が相手に殺されるから、戦闘になるのである。人間が、人間を殺すというのは、ずいぶんツライことである。それが、見も知らぬ相手だったり、縁もゆかりもない外国人だったりするから、まだできるのである。いわゆる“鬼”になって殺せるのである。

だから、戦線では味方から戦死者や負傷兵が出たトタンに、鬼になれるのだ。それまでは、恐くて恐くてたまらなかったのに、勇気が沸いてくる。戦場心理ではさておき、それなのに、どうして、子供を殺せるのか。どうして、親の生命を奪えるのか。親子関係があった2人だけに、私には理解できない。

若い男女が、心を通わせるものには、セックス以外にも多々あるではないか。享楽的な性に趣くから、“デキチャッタ”ことになる。美術でも音楽でも、2人を結び合わせる“媒体”はセックスだけではないことを、若い女性はもっと真剣に考えるときがきているといえるだろう。

子供が“セックスの帰結”と見なされている限り、子の親殺しは続くであろう。殺すほうも、殺されるほうも、こんなに、人間として惨めなことがあっていいものか。 平成13年11月22日

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※三田和夫の癌が発覚(本人には知らせず)したのが平成13年9月初め。10月に一度退院するが、12月末に再度悪化、年が明けてから救急搬送。平成14年2月15日永眠。享年80歳。
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株式会社正論新聞社 社長・編集長
三 田 和 夫  80歳
◇◆◇◆編集長略歴◆◇◆◇
大正10年6月11日、盛岡市に生まれる。府立五中を経て、昭和18年日大芸術科を卒業。読売新聞社入社。同年11月から昭和22年11月まで兵役のため休職。その間、2年間に及ぶシベリアでの強制労働を体験。復員後、読売社会部に復職。法務省、国会、警視庁、通産・農林省の各記者クラブ詰めを経て最高裁司法記者クラブのキャップとなる。昭和33年、横井英樹殺害未遂事件を社会部司法記者クラブ詰め主任として取材しながら、大スクープの仕掛け人として失敗。犯人隠避容疑で逮捕され退社。昭和34年、マスコミ・コンサルタント業の「ミタコン」株式会社を設立するも2年あまりで倒産。以後、フリージャーナリスト生活を送る。昭和42年、元旦号をもって正論新聞を創刊。昭和44年、株式会社「正論新聞社」を設立。田中角栄、小佐野賢治、児玉誉士夫、河井検事など一連のキャンペーンを展開。正論新聞は700号を超え、縮刷版刊行を期するも果たせず。
◇◆◇◆著書◆◇◆◇
☆「迎えにきたジープ」
☆「赤い広場―霞ヶ関」
☆「最後の事件記者」(実業之日本社)
☆「黒幕・政商たち」(日本文華社)
☆「正力松太郎の死の後に来るもの」(創魂出版)
☆「読売梁山泊の記者たち」(紀尾井書房)
など多数。

「新聞記者・三田和夫の集めた取材資料を整理し活用する会」からのごあいさつ 2001.11.30 三田和夫
「新聞記者・三田和夫の集めた取材資料を整理し活用する会」からのごあいさつ 2001.11.30 三田和夫
「新聞記者・三田和夫の集めた取材資料を整理し活用する会」からのごあいさつ 2001.11.30 三田和夫
「新聞記者・三田和夫の集めた取材資料を整理し活用する会」からのごあいさつ 2001.11.30 三田和夫

文中では、「編集長ひとり語り」が65回にもなり、と書かれているが、現在までのところ第64回が最終回で、第65回は見つかっていない。

また、この手紙が実際に発送され、入会金や年会費を払った人がいたのかどうかもわからない。日付を見ると「2001.11.30」とあり、約1カ月後の年末には食道に挿入されたステントの効果も失われ、もう起き上がることもできないほど癌が悪化していた。

もしかすると、10月にいったんは退院できたものの、11月末になると、自身の体調の再悪化にそれとなく気付き、そうした不安からこのような手紙を書いたのかもしれない。三田和夫が亡くなるのは、この手紙の2カ月半後、癌が見つかったとき医者が「余命6カ月」と言ったが、ほぼその通りだった。