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シベリヤ印象記(9) 誓いの言葉

シベリヤ印象記(9)『誓いの言葉』 平成12年(2000)9月7日 画像は三田和夫23~24歳(最前列左から2人目 三田小隊1945)
シベリヤ印象記(9)『誓いの言葉』 平成12年(2000)9月7日 画像は三田和夫23~24歳(最前列左から2人目 三田小隊1945)
シベリヤ印象記(9)『誓いの言葉』 平成12年(2000)9月7日 画像は三田和夫23~24歳(最前列左から2人目 三田小隊1945)
シベリヤ印象記(9)『誓いの言葉』 平成12年(2000)9月7日 画像は三田和夫23~24歳(最前列左から2人目 三田小隊1945)

シベリヤ印象記(9)『誓いの言葉』 平成12年9月7日

少佐は、半ば上目使いに私を見つめながら、低いおごそかな声音のロシア語で、口を開いた。一語一語、ゆっくり区切りながらしゃべりおわると、少尉が通訳する。

「貴下はソヴィエト社会主義共和国連邦の為に、役立ちたいと願いますか」

歯切れの良い日本語だが、直訳調だった。少佐だって、日本語を使えるのに、今日に限って、のっけからロシア語だ。しかも、このロシア語という奴は、ゆっくり区切って発音すると、非常に厳粛感がこもるものだ。平常ならば、国名だってエス・エス・エス・エルと略称でいうはずなのに、いまはサューズ・ソヴェーツキフ・ソチャリスチィチェスキフ・レスプーブリクと、正式に呼んだ。

私をにらむようにみつめている、二人の表情と声とは、ハイという以外の返事は要求していないのだ。そのことを本能的に感じとった私は、上ずったかすれ声で答えた。

「ハ、ハイ」

「本当ですか」

「ハイ」

「約束できますか」

「ハイ」

タッ、タッと、息もつかせずにたたみこんでくるのだ、もはや、ハイ以外の答えはない。私は興奮のあまり、つづけざまに三回ばかりも首を縦に振って答えた。

「誓えますか」

「ハイ」

しつようにおしかぶさってきて、少しの隙も与えずに、ここまで持ちこむと、少佐は一枚の白紙を取り出した。

「よろしい、ではこれから、私のいう通りのことを紙に書きなさい」

——とうとうくるところまできたんだ。

私は渡されたペンを持って、促すように少佐の顔を見ながら、刻むような日本語でたずねた。

「日本語ですか、ロシア語ですか」

「パ・ヤポンスキー!」(日本語!)

はね返すようにいう少佐についで、能面のように、表情一つ動かさない少尉がいった。

「漢字とカタカナで書きなさい」

静かに、少尉の声が流れはじめた。

「チ、カ、イ」(誓い)

「………」

「次に住所を書いて、名前を入れなさい」

「………」

「今日の日付、1947年2月8日……」

「私ハ、ソヴィエト社会主義共和国連邦ノタメニ、命ゼラレタコトハ、何事デアッテモ、行ウコトヲ誓イマス。(この次にもう一行あったような記憶がある)

コノコトハ、絶対ニ誰ニモ話シマセン。日本内地ニ帰ッテカラモ、親兄弟ハモチロン、ドンナ親シイ人ニモ、話サナイコトヲ誓イマス。

モシ、誓ヲ破ッタラ、ソヴィエト社会主義共和国連邦ノ法律ニヨッテ、処罰サレルコトヲ承知シマス」

不思議に、ペンを持ってからの私は、次第に冷静になってきた。チ、カ、イにはじまる一字一句ごとに、サーッと潮がひいていくように興奮がさめてゆき、机上の拳銃まで静かに眺める余裕ができてきた。

最後の文字を書き上げてから、拇印をと思ったが、その必要のないことに気付いて、「誓約書の内容も判らぬうちに、一番最初にサインをさせられてしまったナ」などと考えてみたりした。

この誓約書を、いままでに数回にわたって作成した書類と一緒に重ねて、ピンでとめ、大きな封筒に収めた少佐は、姿勢を正して命令調で宣告した。

「プリカーズ」(命令)

私はその声を聞くと、反射的に身構えて、陰の濃い少佐の眼を凝視した、その瞬間——

「ペールウィ・ザダーニエ!(第一の課題)1カ月の期間をもって、収容所内の反ソ反動分子の名簿をつくれ!」

ペールウィ(第一の)というロシア語が、耳朶に残って、ガーンと鳴っていた。私はガックリとうなずいた。

「ダー」(ハイ)

「フショウ」(終わり)

はじめてニヤリとした少佐が、立ち上がって手をさしのべた。生温かい柔らかな手だった。私も立ち上がった。少尉がいった。

「3月8日の夜、また逢いましょう。たずねられたら、シュピツコフ少尉を忘れぬように」(つづく) 平成12年9月7日

編集長ひとり語り第41回 娘たちよ、すぐに男にやらせるな!

編集長ひとり語り第41回 娘たちよ、すぐに男にやらせるな! 平成12年(2000)6月24日 画像は三田和夫73歳(黄河鉄橋1995.02.26)黄河鉄橋:戦時中、三田小隊が守備していた鉄橋
編集長ひとり語り第41回 娘たちよ、すぐに男にやらせるな! 平成12年(2000)6月24日 画像は三田和夫73歳(黄河鉄橋1995.02.26)黄河鉄橋:戦時中、三田小隊が守備していた鉄橋

■□■娘たちよ、すぐに男にやらせるな!■□■第41回■□■ 平成12年6月24日

6月22日、駐輪場で殺された女子高生の第一回公判が開かれた。被告は殺意の有無について「殺すつもりはなかった」といった。

いわゆるストーカーが事件化するのは、みな、女が交際を拒否した時点からである。交際を拒否——などと、キレイごとの表現をしたが、ズバリ書くならば、「もうおまえとはセックスしない」宣言なのである。男にとっていつでもどこでも、自分が欲する時にやれる女がいる、ということが重大なのである。

むかしは、遊郭(女郎屋・売春宿)があったから、男はいつでもヤルことができた。しかも、今のソープなどと比べられない安さだから、“泊まり”の豪遊(といっても、本部屋泊まり以外にも“まわし部屋”の安いのもあった)ではなくとも、チョンノマといわれる、超短時間の遊びも可能だったのだ。

つまり、安定的な性処理が失われたのでは男は頭にくる。復縁を迫って、つきまとうのは当然である。だから、オドシのつもりのナイフが、その場の勢いでグサリ、も無理からぬことである。殺意(殺してやろうという意志)の有無が問われるわけである。

若い娘たちは、あまりにも無造作に、すぐ男にヤラせる。あとさきを考えるチエもなく求められるままに、身体を開く。それが何回か継続したのちに、好悪や反省や、男の自己中心的行為への不快感などで、“絶交宣言”となり、トラブルになる。要は、男の性格を見極めないで、ヤラせるな! である。

だが、日本語というのは面白い。ヤラレル、ヤラセル、売ラレル、だまサレル、言い寄ラレル、抱かレル——すべて、男女間の行為は、女性の受身言葉で表現される。これは、男尊女卑思想の然らしめたところであろう。戦後半世紀も過ぎ、男女同権といわれながら、現実は、女性が受身なのである。

アメリカはどうか。NHKの深夜番組で、延々とつづけている「ビバリーヒルズ青春白書」を見ると、男女が画面に出てくると、すぐキスして、すぐセックスをする。若い娘のほとんどが、すぐヤラセルから、男は次から次へと移れるのである。だから、キレる事がない。だが、残念ながら、わが日本では、すぐヤラセル娘の絶対量が少ないから、男はキレるのである。

ロシアはどうか。1917年の革命は、帝政ロシアを打倒し、農奴と性を開放した。もともと娯楽のない農村では、性行為が娯楽のひとつであった。それが、開放されたのだから、男女は、同一労働、同一賃金に裏付けされて、男女ともに、ダワイ・イバーチィ(さあ、やろう)の一言で、受身の言葉はない。先日亡くなった竹下元首相の地元、島根県では、東京オリンピックでテレビが普及するまでは、“夜這い(よばい)”の習慣が現存した。あくまで、女性の受身形なのだ。

さて、こうして眺めてみると、日本の若い男たちはジコチュウで育ってきているから、“いつでもヤレルし、ヤラセル女”に絶交宣言されると、どうしてもキレて、ストーカーになってしまう。

だから、若い娘たちに忠告する。殺されたくなかったら、すぐにヤラセルな! ヤラセル時には“結婚”という社会的なワッパをはめてからヤラセロ! と。そうでなければ、キレない男だと見極めてからヤラセロ! 平成12年6月24日

編集長ひとり語り第49回 戦争とはなんだ?(1)

編集長ひとり語り第49回 戦争とはなんだ?(1) 平成12年(2000)8月26日 画像は三田和夫23歳(前列左から2人目・軍刀・メガネ 三田小隊・黄河鉄橋防空隊1945.02~)
編集長ひとり語り第49回 戦争とはなんだ?(1) 平成12年(2000)8月26日 画像は三田和夫23歳(前列左から2人目・軍刀・メガネ 三田小隊・黄河鉄橋防空隊1945.02~)

■□■戦争とはなんだ?(1)■□■第49回■□■ 平成12年8月26日

敗戦記念日の8月15日をはさんで、マスコミは、その紙面(放映)で、投書を加えて「これが戦争だ」と、しきりにアジテーションをあおっていた。虐殺という言葉も、しきりに登場していたが、その言葉の意味をも確かめず、用いられていた。

例えば、参戦各国ともに見られるのだが、捕虜を並べて機銃で撃ち殺す——これは虐殺なのか。戦闘中に、銃砲弾で殺される。これまた虐殺なのだろうか。米軍の日本本土爆撃で、非戦闘員の女、子供、老人が死ぬのだが、虐殺なのだろうか。原爆はどうか——。

私は、あの雨の神宮外苑の学徒出陣式の1カ月前、昭和18年11月1日に入隊した。9月卒業で10月1日に読売入社。正力松太郎の日の丸を頂いて千葉県佐倉に入隊。しかし学徒根こそぎ動員が12月1日に入隊してくるので、中国に送られ、河南省黄河のほとりに駐屯したのち、保定の予備士官学校へ。4月入隊。その前に、原隊は南方転進で大半は輸送船ごと海底に沈んだと聞く。幹部候補生だけ残されたので、助かった次第だ。19年12月、卒業して見習士官となり、黄河の畔に戻った。

20年2月、重機関銃3丁を率いて、黄河鉄橋防空隊の高射砲大隊に配属され、鉄橋爆撃の米空軍との戦いとなった。B24爆撃機が一車線の細い鉄橋を爆撃するが、なかなか命中しない。泥深い河に落ち、橋脚をゆるがす。と同時に、鉄橋上の我が陣地に掃射を加えてくる。瞬時に通りすぎる機影めがけて応射する。射たれて射ち返す。殺されて殺し返す。これが「戦闘」である。

約1時間、爆弾を使い果たしたB24編隊は奥地の老河口飛行場に去る。陣地の土のうには弾痕があるが、部下の点呼。死傷なし。その瞬間に、スポーツの試合が終わったあとのような、爽快感を覚える。1日1回、きょうの定期便は終わったのだ。翌日から2、3日はP51機が高々度から、鉄橋の被害を調べにくる。そしてまた空襲である。5月までの4カ月間にB24一機を落とした。

その間に、北支派遣軍は、米空軍の根拠地老河口作戦を展開。私が原隊復帰をしてみると、中隊長は先任小隊長を連れて、その作戦に出ていた。米軍の本土上陸に備えて、四日市付近に帰国するハズだったが、満ソ国境の部隊を帰し、私たちはその後釜で満ソ国境白城子に部隊移駐が命じられた。大隊の集結が、作戦部隊の撤収を待っていて遅れ、8月13日夜、新京(長春)に到着し、9日のソ軍侵攻で、師団主力と分かれ、首都防衛軍に編入され、8月15日を迎える。

「…8月15日未明、有力なるソ軍戦車集団が首都新京に侵攻…。一兵能く一輌を撃破…」と、手榴弾5、6個を縛り、それを抱いての突撃という命令が出たのが、14日の夜更け。タコ壺を掘り、身を潜めて夜明けを待ったがキャタピラの音がしない。この時はさすがに「オレの人生も終わりだナ」と感じていた。が、正午に重大放送があるという予告で、15日の朝が快晴の太陽を輝かせていた。(この時のことは稿を改めて書きたい)

8月16日夜、ソ軍の先遣隊が市内に入ってきた。治安維持のため、市内巡察に一個分隊を連れて歩いていた私は、前方からくる部隊がソ軍と気付いて、全身總毛だったのを覚えている。だが、双方ともにオッカナビックリで、広い道路の両側をスレ違った。もしも、どちらかが発砲していたら、新京の無血占領はなかっただろう。

そして、20日から、掠奪、暴行、強姦がはじまった。強姦のあとは、必ず被害者を殺すのである。口封じであろう。

私が見たもの、聞いたもの、経験したもののすべては、みな「戦争」の小さな小さな一断片にすぎないのである。他の人のそれも同じである。それが、「これこそ戦争だ」と、力(リキ)み返って登場してくる。(続く) 平成12年8月26日