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最後の事件記者 p.098-099 原稿が書けない奴が多い

最後の事件記者 p.098-099 「どうだ。この雑誌に原稿を書いてみないか」と、私がすすめたのだが、そんなことに時間を費すよりは、マージャンでもしていた方が良いというのだ。
最後の事件記者 p.098-099 「どうだ。この雑誌に原稿を書いてみないか」と、私がすすめたのだが、そんなことに時間を費すよりは、マージャンでもしていた方が良いというのだ。

昔の記者は分業であった。着物を尻端しょりにしたのか、ハンテン、モモ引で、鳥打帽子の〝探訪〟が取材してくると、社に待ち構えている〝戯作者〟が、矢立の筆を取って、探訪の話を聞きながら、サラサラと美文調にまとめるのだ。記者がタネ取りとさげすまれた時代だ。

これで、果して、新聞は真実を伝え得るだろうか。当然、このような状態は打破されなければならない。しかし、私の先輩たちにも、このような表現力か取材力を欠いた人たちがいた。「何某さんが、原稿書いたのを見たことがあるかい?」後輩たちのこんなニクマレ口が自然に出てくるのだ。

メッセンジャー記者?

そして、それは現在にも引きつがれている。どんな能力も、日頃の錬磨なしにはのび得ない。取材力も表現力も、月月火水木金金あるのみである。だが、今の記者諸君の多くは、それを怠っている。その理由は、(そんな努力をしたって)ひき合わない、ということである。

実際に、今はひきあわないことは確かである。社会秩序は安定し、動乱はのぞむべくもない。動乱の時こそ、社会部ダネが労せずして転がっているからであろう。

如何に新聞記者に、原稿が書けない奴が多いか、ということは、週刊誌はじめ、記者がサイドワークの原稿を書き得る雑誌の、編集者が一番良く知っているに違いない。

さきごろ、四、五人のサツ廻りの記者たちと一パイのビールをのんだ。「どうだ。この雑誌に原稿を書いてみないか」と、私がすすめたのだが、一人を除いて皆イヤだという。そんなことに時間を費すよりは、マージャンでもしていた方が良いというのだ。

また、ある事件を調べようと思って、その警察に出かけていったことがある。折よく、その署の担当記者に出会ったので、まず彼に聞いてみると、彼は知らない。すると彼は他社の記者から取材しようとした。

ところが、その記者も他社の記者のメモを借りて、それで社へ送稿したとみえて、その記者も知らない。やむなくその記者は、私を連れて、捜査主任のもとへ行ったが、その捜査主任の名前もよく知らない始末だ。サツ廻りが捜査主任と、オースという仲でなくて、何のサツ廻りであろうか。

これは九牛の一毛であるのかもしれないが、若い記者の多くが、このように、不勉強で、しかも、努力をしようとしないのだから、新聞がつまらなくなるのも当然である。やがては、表現力 も取材力もない記者、官庁の発表文を伝えるだけの、メッセンジャー記者時代になるのだろう。