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最後の事件記者 p.092-093 当時の上野は犯罪の巣窟

最後の事件記者 p.092-093 グレン隊、ズベ公、オカマ、パンパン、ヤミ屋、家出人——ありとあらゆる、社会の裏面に接するのは、この新聞記者の駈け出しともいうべき、サツ廻りの時代である。
最後の事件記者 p.092-093 グレン隊、ズベ公、オカマ、パンパン、ヤミ屋、家出人——ありとあらゆる、社会の裏面に接するのは、この新聞記者の駈け出しともいうべき、サツ廻りの時代である。

その時には、すでにサツ廻りとして、上野へ出ていたのであ

る。高木健夫さんが、シベリア印象記の結ぶ恋と聞いて、「ウン、そりゃ、書けるナ」と冷やかされた。

こんな結婚話を書きつらねるのも、それから十年間、紆余曲折喜怒哀楽のうちに、新聞記者の女房として、横井事件でアッサリと社を投げ出してしまった時までの、彼女の気持も理解して頂かねば、私の生活記録として欠けると思うからである。

裸一貫の私には、貯金も財産もなかった。あったのは、職業と健康だけである。軍隊時代の封鎖された貯金から千三百円、学生服を売って二千五百円、社の前借が二千円、それに各方面からのお祝いを九千六百円頂き、合計一万五千四百円の現金ができた。そして、九千五百七十一円の結婚式費用を投じて、二人は一緒になった。新居は依然として、兄の二階だった。新婚旅行なぞは、したくとも金がなかったので取止めた。

この結婚の当初から、私たちの新家庭は、いわゆる新婚家庭ではなかった。私が仕事に熱中していたからであった。当時の上野は、地下道時代だったから、全く犯罪の巣窟でもあり、ニュースの宝庫でもあった。

地下道時代

グレン隊、ズベ公、オカマ、パンパン、ヤミ屋、家出人——ありとあらゆる、社会の裏面に接するのは、この新聞記者の駈け出しともいうべき、サツ廻りの時代である。だから新聞記者で、サツ廻りを経験しないのは不幸なことである。

ターバンの美代ちゃん、という、ズベ公のアネゴと親しくなった。今でいうスラックスをピッとはいて、向う鉢巻のターバンをしていて、年のころ二十二、三の、意気の良いアネゴだった。

ポケットに洋モクを一個入れて、ポリにつかまると、「洋モクをバイ(売)してるンだ」と逃げるが、実はパン助の取締り——ショバ代をまきあげて生活している。女の意地がたたないとなると、子分のズベ公を連れて、朝鮮人の家にでも、ナグリ込みをかけるほどの女だ。   

彼女の家に泊めてもらったことがある。何人か各社の記者も一緒だ。そして、夜中に彼女の部屋をのぞくと、彼女のスケ(情婦)という可愛らしい十七、八の娘と抱き合ってねていた。女同志の妖し気な情事が、どんなに激しいかを知って驚いたのもそのころのことだ。

Mという、決して美人でない変り者のパン助がいた。彼女は、客を引きながらも、決してムダ に立っていない。仲間のパン助相手に、オムスビやオスシを売る行商をする。そして、七十八万円を貯金していた。

最後の事件記者 p.094-095 七十八万円を貯金していた

最後の事件記者 p.094-095 私と朝日の矢田喜美雄記者とが、M紙の記者を怒った。そして、とうとう矢田記者が彼女を自宅に引取った。矢田夫人も新聞記者だったから、こんなことができるのだが…
最後の事件記者 p.094-095 私と朝日の矢田喜美雄記者とが、M紙の記者を怒った。そして、とうとう矢田記者が彼女を自宅に引取った。矢田夫人も新聞記者だったから、こんなことができるのだが…

Mという、決して美人でない変り者のパン助がいた。彼女は、客を引きながらも、決してムダ

に立っていない。仲間のパン助相手に、オムスビやオスシを売る行商をする。そして、七十八万円を貯金していた。

M紙の記者が、そのことをゴシップ欄で書いたものだから、サア大変。彼女はしばしば襲われるようになった。身体につけてもっていると思うのか、営業中にまでグレン隊が飛びかかるのだ。

私と朝日の矢田喜美雄記者とが、人権問題だといって、M紙の記者を怒った。そして、相談したあげく、更生できるのならば、一石二鳥というので、とうとう矢田記者が彼女を自宅に引取ったのである。

矢田夫人も新聞記者だったから、こんなことができるのだが、普通の家庭ならば大変である。彼女は神妙に国立の奥にある矢田家に暮していたが、やがて一月もたとうというころ、お礼の書置を残して失踪した。再び上野に現れた彼女は、それから間もなく、北海道の商人で、定期的に上京する男の、東京ワイフに納ってしまった。

どうして彼女は、矢田家をとび出したのだろうか。私たちは矢田記者に聞いてみた。

『つまり、麻薬の禁断状態と同じらしいね。はじめの間は、遠慮して我慢していたのだが、やは

りやり切れなくなったらしい』

オカマの和ちゃん。彼女などはオカマといいながら、大変な美人であった。ある日、読売の婦人記者がオカマをみたいというので、上野を案内したことがある。途中で、和ちゃんに出会ったので、一緒に連れて、明るいレストランで三人でお茶を飲んだ。外に出て別れてから、婦人記者に「あれが、女形あがり、女形くずれじゃないよ。和ちゃんて子だ」彼女はエッと叫んで、信じ切れなかったらしい。

上野駅で、後から「隊長ドノ!」と呼ぶものがある。振り返ってみると、シベリアで一緒に苦労した旧部下の一人だ。聞いてみると、女とバクチで身を持ちくずし、高橋ドヤに転がり込んで、上野駅でショバ屋をやっているという。これもヒロポンだ。

『カタギになりたい』という彼の希望に、私は家へ連れてきた。といっても六帖の下宿住い だ。一晩泊めてから、都の民生局へ交渉して、引揚者寮へ入れてやった。やはり、軍隊友逹の佃煮屋さんに頼んで、その魚市場の売店の売り子にしてもらったが、彼も一月ほどで失踪してしま った。

カキ屋という、上野ならではの商売。ジドク屋である。ノゾキをしている男の補助をしてやる

のだ。視神経と運動神経を同時に使うと熱中できないから、運動部門を担当する。