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読売梁山泊の記者たち p.018-019 大下の描くナベ恒の謀略

読売梁山泊の記者たち p.018-019 大下は、渡辺の、覇道について書いている。氏家〝謀殺〟、政治部内の派閥戦争から〝社内の敵〟を葬り去ってゆく手口と経過を、具体的な取材で綴っている。
読売梁山泊の記者たち p.018-019 大下は、渡辺の、覇道について書いている。氏家〝謀殺〟、政治部内の派閥戦争から〝社内の敵〟を葬り去ってゆく手口と経過を、具体的な取材で綴っている。

かつて、読売新聞では、ヒラの政治部記者・藤尾正行が、傲岸不遜の代表であった。その頃、小田

急梅ケ丘駅で、時の政治部長・古田徳次郎と藤尾、そして私の三人が、朝一緒になったことがある。

私が、藤尾を見つけてお辞儀をするのは、当然。そこに古田がやってきて、先に「おはよう」と、頭を下げる。と藤尾は、「ウン」といって、胸をそらすのである。藤尾のお辞儀は、頭を下げるのではなく、ソックリ返ることであった。だが、渡辺にはかなわない。渡辺のは、顔の表情から、身体全体の構えまで、傲岸不遜なのである。

閑話休題——満場の拍手の中で、務臺と中曾根が握手して、祝辞のためマイクに向かった。

その時、拍手する人びとの表情を見ようと、私は、振り向いてまわりを見まわした。

と、うしろのほうの人混みのなかに、腕組みをして拍手しない男を見つけた。なんと日テレ副社長の氏家ではないか。

「氏家さん、どうしたの。ナベさんの晴れ姿を祝ってやらないの?」

「フン。ナベのヤローなんか!」

吐いて棄てるような、氏家のその言葉に、私は、次の言葉を失っていた。

――なんということだ! 氏家と渡辺との二人三脚が、すっかり崩れていたとは!

パーティの席で、人が流れており、そのまま私は、氏家に話を聞くことができなかった。

大下英治の描く、ナベ恒の謀略

平成二年七月二十五日初版で、角川書店から、大下英治著「小説・政界陰の仕掛人」という、文庫

本が出た。

大下が「宝石」や「現代」などの月刊誌、「週刊文春」などに書いた、四元義隆、入内島金一、青木伊平、渡辺恒雄などを、取り上げたもので、それに共通のタイトルを付したものだ。

だが、三九八ページの同書のうち、渡辺に関しては、二篇、同書の半分の一九〇ページを費やしている。同書では「最後の派閥記者――渡辺恒雄」というタイトルだが、初出誌では、こうなる。

「月刊宝石五十八年九月号」(渡辺恒雄読売専務・論説委員長の中曾根総理の密着度)

(ボクは黒幕なんかじゃないよ・読売専務渡辺恒雄大いに語る――五十九年六月)

「月刊現代五十九年八月号」(渡辺恒雄読売専務インタビュー)

この、渡辺の中曾根密着度、という五十八年九月号の「月刊宝石」の記事は、九頭竜ダムをはじめ、児玉との密着度を、徹底的に暴いている。つまり渡辺批判の作品である。

大下は、このなかで、渡辺の、覇道について書いている。ロッキード事件での社会部との闘い、氏家〝謀殺〟、先輩、同輩との政治部内の派閥戦争から、〝社内の敵〟を葬り去ってゆく手口と経過を、具体的な取材で綴っている。その内容の濃さに、私も敬意を表したものだった。

その末尾には、「(昭和五十七年)この六月二十七日の読売人事で、渡辺は専務に昇格した。同時に、同じ常務であった、社会部出身の加藤祥二常務は、取締役から降格された」

「社内の噂では、加藤常務は解任の朝まで、それを知らなかった、といわれています。その日の朝、ナベ恒に、もう明日から来なくていいんだよと、引導を渡されたそうです。いかにも、彼らしいひど

いやり方だ、と囁かれています。…」と、渡辺批判が「(社会部ベテラン記者)」として書かれている。

読売梁山泊の記者たち p.020-021 渡辺のケツを洗っている

読売梁山泊の記者たち p.020-021 「三田さん。あなた、大下英治というライター、知っていますか?」「あいつがネ。私のケツを洗っているんですよ。…もっとハッキリしたら、お願いごとに伺うかも知れませんが…」
読売梁山泊の記者たち p.020-021 「三田さん。あなた、大下英治というライター、知っていますか?」「あいつがネ。私のケツを洗っているんですよ。…もっとハッキリしたら、お願いごとに伺うかも知れませんが…」

その末尾には、「(昭和五十七年)この六月二十七日の読売人事で、渡辺は専務に昇格した。同時に、同じ常務であった、社会部出身の加藤祥二常務は、取締役から降格された」

「社内の噂では、加藤常務は解任の朝まで、それを知らなかった、といわれています。その日の朝、ナベ恒に、もう明日から来なくていいんだよと、引導を渡されたそうです。いかにも、彼らしいひど

いやり方だ、と囁かれています。…」と、渡辺批判が「(社会部ベテラン記者)」として書かれている。

この「月刊宝石」の掲載が、五十八年九月号だから、多分、その年の春ころのことだろう。意外なことだが、渡辺から私のもとに電話があった。

「三田さん。あなた、大下英治というライター、知っていますか?」

私のほうが、読売では先輩だから、サン付けが当然である。軍隊と同じで、新聞社内では、入社年次が一年先なら必ずサン付けである。

「いやあ、ナベさんかい。珍しいね。大下なら週刊文春時代からの付き合いで、良く知っているよ。…どうかしたの?」

「あいつがネ。私のケツを洗っているんですよ。…もっとハッキリしたら、お願いごとに伺うかも知れませんが…」

「ああ、いいよ。他ならぬナベさんのことだから、お役に立てれば…」

「もしかしたら…。改めて、ご連絡しますので、よろしく」

電話はそれで切れて、そして、二度とかかってこなくて、「月刊宝石」はその記事を掲載して発売された。

大下のスタッフが、渡辺のケツを洗っていることを知って、彼は、溺れる者のワラで、私のもとに電話してきたに違いない。

だが落ち着いて考えてみると、三田を大下との交渉に使うことは、自分の手の内をバクロすること

になる。私は「務臺さんの社外での一の子分」と、自称し、かつ、紙面にも書いていた。

当時、渡辺、氏家は蜜月時代で、ふたりとも、小林与三次派だったのである。もしも、三田が渡辺の〝恥部〟を握って、務臺にチックリ(密告)したら、務臺コンピューターに渡辺はダメ、とインプットされてしまう。これは、記事がそのまま出るよりも危険だと、考え直したに違いない。

だが、渡辺の権謀術数は、大下にやられっ放しではない。すぐ態勢の建て直しである。

もともと、務臺が、小林に読売社長の座を譲ったのは、昭和五十六年六月だが、代取・会長になっていた。それを、二年後の五十八年六月に「小林社長がやりやすいように」と代取を外すことを、自ら提案した。そして、名誉会長になったのだった。

その身軽さから、アメリカ旅行に出て、帰国してみると、新聞の代取だけを外せ、といっておいたのに、読売グループ三十数社のすべてから、代取はもちろんのこと、役員まで外してしまっていた。

烈火の如くに怒った務臺は、直ちに代取に復帰して、代取・名誉会長という〝奇妙〟な肩書になった。この際務臺の力を、一気にソイでしまって、扱い易い小林だけにしよう、と、足並を揃えた、渡辺、氏家だったが、思惑が狂って、大あわてであった。

氏家は、渡辺に一歩先んじているので、日テレの社長になれば、小林の日テレ社長→読売社長の後につづいて、読売へ、アイ・シャル・リターンだと。

渡辺は渡辺で、読売内部で、先輩たちを片づけてゆくほうが近道、と踏んでいたのだろう。

この、務臺の代取復帰から、渡辺は小林についているより、務臺につくべきだ、と考えたらしい。

読売梁山泊の記者たち p.024-025 電光石火の早業で渡辺は

読売梁山泊の記者たち p.024-025 それが、突如、バクロされたのだった。丸山は、務臺に諒解を求め、辞職の必要なし、ということで安心していたところ、すでに解任を役員会が決めていた。
読売梁山泊の記者たち p.024-025 それが、突如、バクロされたのだった。丸山は、務臺に諒解を求め、辞職の必要なし、ということで安心していたところ、すでに解任を役員会が決めていた。

六十三年十一月一日付の名簿では、渡辺は、務臺、小林に次ぐ第三位で、取締役副社長、主筆・調

査研究担当と、第四位の取締役副社長の丸山と、順位が入れ代わっている。そして、翌年の名簿では、丸山の名前が消えている。

丸山の名前が消えたのは、この渡辺と順位交代の名簿ができたころの十一月、例のリクルート事件である。日経・森田社長につづいてリクルート株が表面化し、退職に追い込まれた。

大下が、加藤常務の解任を、その日の朝知らされた、と書いているように、丸山の解任も当日だった、という。

読売の行事に、「青森—東京」駅伝というのがある。これが、経費が一億円かかる。そのスポンサーがつかなくて、役員会で、中止が議題になった。丸山は、業務担当だったから、最後の努力を求められた。そこで、リクルートの江副から「経費一億プラス広告五千万×三年間」計四億五千万、の話を決めてきた。

それには、前段があった。読売発行の「住宅案内」を廃刊する。リ社では「住宅情報」を出していたので、ムダな戦いをやめる、という過去があった。

話がまとまったあと、江副から、「株を持ってほしい」と、話があり、世話になった後なので、自分の金で買い、そのまま、所有していた。それが、突如、バクロされたのだった。

丸山は、務臺に諒解を求め、辞職の必要なし、ということで安心していたところ、すでに解任を役員会が決めていた。

渡辺は「丸さんが社長、オレは主筆に」と、すっかり、その気にさせておいて、対大下・光文社工作をさせたニオイがする。というのは、月刊宝石の六十二年九月より六十三年八月までの一年間、「新連載ドキュメント新聞三国史・実録務臺光雄」というのを、大下が書いているのである。

これは、どう見ても、五十八年九月号の渡辺批判の尻拭いであり、渡辺・大下の手打ちである。渡辺の強い抗議で、大下は、やや持ち上げのインタビューを、五十九年八月の「月刊現代」に書き、この実録務臺光雄で、大下の顔を立て、さらに、角川の単行本で、渡辺のオ提灯をつけた。

渡辺の対マスコミ工作は、まさに、アメとムチである。六十三年七月二十一日号の「週刊アサヒ芸能」誌が、「リクルートコスモス公開株の甘い蜜に群がった日経社長らマスコミ幹部二十三人の全リスト」として、渡辺の名前を出した。

激怒した渡辺は、直ちに、徳間書店と編集長とを、名誉毀損の損害賠償で一億円の訴訟を起こした。これは、十二月に入って、法廷和解となり、謝罪広告と和解金百五十万円(訴訟の印紙は五十万円余) で決着する。

覇道を突き進む読売・渡辺社長

務臺の死後、電光石火の早業で、渡辺は社長になる。その、就任披露の読売朝刊記事は、「メーン会場の鳳凰の間入り口で、小林会長と渡辺社長、正力亨社主ら…」とあるが、写真では、三番目に写っている正力について、説明はカット。

それよりも、大きな衝撃を受けたのは、平成三年六月四日の務臺光雄・社葬の際、葬儀委員長・小

林与三次、同副委員長・渡辺読売社長、同・坂田源吾大阪読売社長の三名が、先頭に立つのは当然として、「社主・正力亨」が、十二、三番目にひとりショボンと、うなだれて立っているのを、目撃した時であった。