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編集長ひとり語り第51回 戦争とはなんだ?(3)

編集長ひとり語り第51回 戦争とはなんだ?(3) 平成12年(2000)9月9日 画像は三田和夫23歳(前列右から2人目タスキ掛け 島崎隊1945年)
編集長ひとり語り第51回 戦争とはなんだ?(3) 平成12年(2000)9月9日 画像は三田和夫23歳(前列右から2人目タスキ掛け 島崎隊1945年)
編集長ひとり語り第51回 戦争とはなんだ?(3) 平成12年(2000)9月9日 画像は三田和夫23歳(前列右から2人目タスキ掛け 島崎隊1945年)
編集長ひとり語り第51回 戦争とはなんだ?(3) 平成12年(2000)9月9日 画像は三田和夫23歳(前列右から2人目タスキ掛け 島崎隊1945年)

■□■戦争とはなんだ?(3)■□■第51回■□■ 平成12年9月9日

8月19日、敗戦から4日目。私たち在新京(長春)の日本軍部隊は、首都防衛司令部の命令による行軍序列で、南方の公主嶺に向けて沈黙の行進をつづけていた。日ソ両軍の交渉で、首都新京に日本軍がいると、不測の事態の可能性があるというので、南の公主嶺市に撤退することになったのだ。ここは軍都ともいうべき街で、兵舎など軍部の施設が数多くあったからだ。

重機関銃、大隊砲などの重装備は、武装解除されたが、軽機関銃、小銃などは、自衛のためまだ持っていた。満人の暴徒や満州国軍の叛乱などが、まだ続いていた。祖国日本の敗戦というショックに、自分たちのこれからの運命を思えば、葬列のような静けさにみちていた。

と、行程の半ばぐらいの時だったろうか。前方で激しい銃声が響いてきた。何が起きたのか、隊列はピタリと止まった。やがて、逓伝で「先頭部隊が外蒙兵に襲撃され、交戦中!」と、報告が入ってきた。私たちはそれをまた、後続の部隊へと叫んで伝える。

私たちは、第二〇五大隊。第一中隊から第五中隊までの小銃隊、それに、重機関銃、大隊砲の二個中隊、約一千四、五百名の兵力が並んでいた。銃声はいよいよ激しい。

「中隊長殿!」と、第五中隊第二小隊長の私は、前方の中隊指揮班に駆けつけた。「友軍が襲撃されているのです。救援に出かけましょう!」説明し損ねたが、黄河の鉄橋防衛の時には、私は重機関銃隊にいたのだが、原隊復帰の時、将校の数が足りない第五中隊に転属していた。

群馬県安中市出身で、中年の島崎正己中尉は、血気にはやる私をジロリと見るや、一喝した。「バカモン! 戦争は終わったのだ! これ以上、私の部下を死なすことはできん!」

ちょうどその時、後方から逓伝が聞こえてきた。「最後尾の戦車隊を前進させる。各隊その位置を動くな!」という。島崎中隊長は「みろ、戦車隊が出てから状況判断する!」と、不満そうに立っていた私を諭した…。やがて、キャタピラの轟音も力強く、十数輌の戦車が前進してきた。駄散兵(ダサンペイ・小銃隊の兵隊のこと)の私たちには、戦車隊の勇姿が、なんとも頼もしかったことを今でもハッキリと覚えている。

2、3時間もその位置にいただろうか。銃声も止み、前方から「前進!」の逓伝がきて再び公主嶺へと行軍を開始した。先頭の部隊は、戦車隊ともども、外蒙兵に拉致され、後には、戦死体と所持品の略奪の様子が残されていた。…これが、のちに戦後の国会でも問題になった、「ウランバートル、暁に祈る」事件の発端であった。まさに中隊長の言葉通りに、“戦争が終わったあとの犬死”だったというべきであろう。

島崎中隊長については、私が、一喝されて素直に従ったワケがもうひとつある。前々章で私が黄河から原隊復帰したとき、中隊長と第一小隊長が作戦に出ていて不在だった、と書いた。その先任少尉の石川新太郎小隊長の話である。米空軍基地のある老河口攻略のため、途中にある南陽市攻撃に参加したのだが、国民党軍が米式装備で守る南陽に行く前に、作戦部隊は、共産八路軍に行く手を阻まれた。

第二〇五大隊からは、島崎第五中隊長、石川第一小隊長のほか、他の中隊から一個小隊宛集めた一個中隊が出ていたのだった。尖兵として前に出ていた石川小隊は、有力な八路軍に包囲されそうになり、全滅の危機だったという。島崎中隊長はその様子を見て取って「石川小隊は退がれ!」と命令した。石川小隊の占めていた位置は、大隊命令で重要な地点だったのだが、島崎中隊長の命令で退却して、全滅をまぬがれた。

その日の夕方、島崎中隊長は多くの兵隊たちのいる前で、大隊長に口汚く罵られたが、黙ったまま直立不動の姿勢で立っていたそうだ。一言も弁解しなかったという。陸軍刑法には抗命罪という罪がある。上級指揮官の命令に背いた時、適用される。島崎中隊長の態度は、自分ひとり罪をかぶっても、石川小隊50余名の生命を救おう、というものだ。

島崎隊の戦友会が毎年1回、群馬県の温泉で催される。島崎、石川両氏とも故人となったが、「あの時、退却命令がなかったら、この会の顔触れは変わっていたろうよ」と、石川少尉は、いつも私に語っていた。

公主嶺の道中での、私への一喝といい、島崎中尉は“ひとのいのち”をなによりも尊ぶ人だった。シベリアの捕虜時代にも、採炭量がノルマに達しないと、責任罰で何回か営倉に入れられた。1日に黒パン一切れと水だけで…。それでも「石炭掘りに行くよりはラクだったよ」と、笑ってみせていた。

企業でも団体でも、上司次第である。それが「経営者責任」でなければならない。ツブれた銀行の役員たちが、過大な退職金を抱え込んであとは知らんぷりである。そごうの水島広雄もそうであるし、三菱自動車の社長など、「辞める気はない」と豪語し、翌日には三菱各社に迫られて「辞める」とは!

ビルマのインパール作戦では、軍司令官の中将は、反対する参謀長の首をスゲ替え、数万の兵を飢え死にさせた。作戦が中止になっても、割腹自殺もしない男だ。

カーター大統領にクビを切られた、在韓国連軍参謀長を取材しに行ったことがある。主戦派だったからだ。ロスからデンバーに飛び、車を仕立てて、ロッキー山脈の中の隠居所を訪ねた。その時の実感は、アメリカの広い国土と人口の多さだった。在米の陸軍駐在武官は、アメリカの実力について、軍中央にキチンと報告を入れていたのだろうか。駐米武官も軍中央も、陸士、陸大の出身者だ。

敗戦も、彼らの指導のもとでは当然の帰結であった。そして彼らは何百万人もの同胞を殺して、責任を取らなかったのだ。 平成12年9月9日