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編集長ひとり語り第63回 ナゼだ? 私には理解できない!

編集長ひとり語り第63回 ナゼだ? 私には理解できない! 平成13年(2001)11月19日 画像は三田和夫80歳(最前列右から3人目 三田和夫の退院を祝う“艶の会”2001.10.28)
編集長ひとり語り第63回 ナゼだ? 私には理解できない! 平成13年(2001)11月19日 画像は三田和夫80歳(最前列右から3人目 三田和夫の退院を祝う“艶の会”2001.10.28)

■□■ナゼだ? 私には理解できない!■□■第63回■□■ 平成13年11月19日

あんまり、戦争のことばかり書きつづけたから、今回は話題をガラリと変えて、最近の新聞に、ひんぱんに登場する、子殺し、親殺しの傾向について語ろう。

じつは、さる10月28日の日曜昼、「三田和夫の退院を祝う“艶の会”」が催され、ザッと25名ほどの一族が集まった。ホテルの昼食バイキングで、みな十分に愉しんだ。

説明が必要だろう。私の父は外科医で、私が1歳半の時、大阪で開業していた病院と豊中村の邸宅と、7人の妻子を残して病死してしまった。33歳で突然、未亡人となった母は、それから75年、子供や孫、ひ孫たちに大切にされ、108歳で、眠るが如き大往生をとげたのである。

三田ツヤ。旧姓小野で、岩手県盛岡市の近江商人の一族、小野組から19歳の時に、独逸帰りの九大卒の外科医・源四郎のもとに嫁いだ。三田家は、南部藩の足軽組頭(士分)であったが、その長男・義正に商才があったとみえ、セメントの東北、北海道の専売権を得て財を成し、多額納税貴族院議員にもなり、盛岡市の中心部に、(株)三田商店を構えるにいたった。次男・俊二郎は岩手医専を創立した。

小野組は、三井組と同格の金融業だったが、明治維新で番頭に人を得ず、三井組がご存知の通りの隆盛を極めたのに、没落した。(宮本又次解説「小野組始末」)小野小町や最近では、刑法の小野清一郎博士などおりながら、近江から盛岡に流れてきたのは、そんな原因があったのだろうか。ツヤは小野質店の次女で、三女は糸治・中村治兵衛に嫁ぎ、岩手銀行頭取夫人となっていた。これは、私がやがて知ることになる“因果はめぐる…”ものがたりである。ツヤは子女の教育としつけに意を用いていた。盛岡で当時ただひとつのクリスチャン幼稚園に通わせ、私にいまだハッキリと記憶に残っている、宣教師のタッピング先生、園長の佐藤トク先生ら、当時の盛岡市の教養と知性とに接触していた。いま、88歳の長女美代子を羽仁もと子の自由学園に入れ、東京に遊学させていた。これには、京大出の長男、早大在学の次男(ともに兄)などが、強硬に反対したらしいが、ツヤの信念は動かなかった。

この反対にはドラマがあった。大正11年12月、大阪で客死した夫の跡始末をしたツヤが病院や邸宅を売った大金を持って、盛岡に帰ってきた時である。6人の子供たちの教育のため、つやは分散して銀行に預けようと主張したのだが、本家の当主・義正は、自分が岩銀の役員でもあり、かつ、ツヤの義弟が頭取でもあるのだから、一括して岩銀に預けよという。ツヤは義正に抗し切れず、その通りにしたのだが、そこに昭和初期の金融恐慌で岩銀は倒産。ツヤは無一文となったのだ。だが、予知した頭取一家は全財産の名義を変え、無疵で乗り切ったのだ。因果はめぐるというのは、姉妹でありながらの、この始末だからだ。

義正はツヤに詫び、生活費は毎月、三田商店から出すということで決着した。ツヤが子供たちを連れて、東京へ出たのには、そんな事件があったからであろう。本家から、毎月いくら出ていたのかは知らない。

そんな時代が、どれほど続いたのかは、もう記憶も薄れた。しかし、ある日、事件が起きた。義正の没後、家督を継いで本家の当主になった義一から、ツヤ宛に「請求書」がきたのである。三田商店からの貸付金を返せというものだった。義正との紳士協定を破られ、ツヤは泣き、長男はオロオロするばかり。その時、次男洋二は、ツヤを伴い、義一の許に乗りこんだ。この交渉が、どれほど続いたのかも分からない。しかし、貸付金ではなくなり、その時点で打ち切りとの結論になった。だから、私の少年時代は、決して豊かではなかったという記憶がある。

ツヤの教育の基本は、気位を高く持ち、卑しいことをするなであった。子供たちはそれぞれ順調に成長し、ツヤの安心立命の時代だったといえよう。だが、戦争は激しくなり三男を亡くし、四男が出征し、五男の私とツヤとの二人暮らしとなった。やがて私も征き、前回に書いた、8月15日早朝、有力なソ軍戦車集団が来襲する、という。集束手榴弾を抱えて、私も、今回で終わりだな、と覚悟せざるを得なかった。

——24年の人生を振り返ったが、ソ軍戦車に突入するとき、自分は何を叫ぶのか。

思い返してみたが、愛する女性の名前は浮かばない。だが、俺は将校だから、一番に飛び出さざるを得ない。そして、その時に「天皇陛下万歳!」と叫ぶか。あと、手榴弾を発火させるときは、「お母さん!」だなと、そう決めて、やっと落ち着いた。

タコツボの中で地面に耳をあてた。どんどん明るくなってくるのに、キャタピラの地響きはまだ聞こえてこない——。

「オカアサン、オカアサマ、オカアサマ。(一族の名前を列記)カズヲハゲンキデス。ニイサン、ネエサンタチ、オカアサンヲマモッテクダサイ。オカアサマ」(シベリアからの捕虜通信ハガキの第一号)

こうして、私は2年で復員し、読売社会部に復職した。それからまた、50年という長い時間が過ぎたが、ツヤは三男を亡くしたほかは、みな元気で戻ってきて、子は孫を産み、孫はひ孫を生んだ。ツヤの人生で、一番幸せの時間が流れていた。

99歳、白寿の祝いの時、私は考えた。ツヤの葬式で、名前も顔も知らないひ孫たちが来たら、困ってしまうな…と。そこで「孫子の会」という名前で、毎年、一族を集めて、ツヤに「だれそれの子供です」と、説明してやりたいものだ。それが、今できる最後の親孝行だろう。ツヤの円満な笑顔が目に見える。そして、108歳で亡くなった後、幹事の私が、引退しよう。「子」は私と四男、長女の3人だけであるが、「孫」は多数いる。そこで、「艶の会」と改名して、孫にバトンタッチをした。ツヤが死んだ時、父源四郎の墓に入れたのだが、骨壷から出して、2人の骨を土と交ぜ合わせた。やがて、盛岡でこの墓も無縁佛になるだろう。私のひ孫の時代には…。

これが、私と母・ツヤとの物語である。ソ軍戦車に突入する時に、「おかあさーん」と叫んで、私の人生が終わる。「天皇陛下万歳」は、そのずっと以前に呟く。シベリアからのカタカナの葉書が4枚。ツヤはキチンと保存していてくれた。

どうして「出会い系」とやらで危険が予知できるのに、少女は売春し、殺されたりするのだ。どうして、母は子を虐待して殺し、子は親を殺すのだ。

何かが間違っており、何かが欠落しており、親も子も、親や子でなくなっている。私の青春時代は、殺伐としてイヤな時代ではあったが、その中で、最低のモラルだけはみんなが、努力し、協力して残していた。それらが、どうして崩壊したのか。誰の責任なのか。そしてこれから、どうしよう、どうなろうというのか。

金のためにのみ生きる。これは政治家の責任である。そんな日本にした奴がいる。母ツヤが亡父の財産の大金を諦めた時から、彼女の幸せが、スタートしたのじゃないか。同時に私のそれも、「艶の会」のメンバーたちのそれも、そうなのだと思う。 平成13年11月19日