十五日に保釈出所するや、その翌日には、私は文芸春秋の田川博一編集長に会っていた。二十五日間の休養で、元気一ぱいだった。
『私は、横井事件を一挙に解決しようと思って、小笠原を一時約に北海道という、〝冷蔵庫〟へ納めておいたのです。それは、安藤以下、五人の犯人を全部生け捕りにするためです』
『ナニ? 五人の犯人の生け捕り?』
『そうです。そして、五日間、読売の連続スクープにして、しかも、事件を一挙に解決しようという計画だったのです』
『しかし、あなたは、大変な悪徳記者だと思われていますよ』
『そうです。私は各社の記事をみて、そう思いました。しかし、新聞は果して、真実を伝えているのでしょうか』
『………』
『なるほど。私が一番に感じたことは、少くとも私の場合、新聞の時間的、量的(スペース)制約を考えても、新聞は真実を伝えていないということです。同時に、私もあのように、私の筆で、何人かの人をコロしたかも知れない、という反省でした。』
『ウン。我が名は悪徳記者ッていう題はどうです』
『誰が、どうして、私を悪徳記者にしたんです。新聞ジャーナリズムがそうしたんだと思います』
『ヨシ、それで行きしょう。あなたの弁解もウンと入れて下さい。自己反省という、新聞批判も忘れないで下さい。』
田川編集長は、「五十枚、イヤ、もっと書ければもっとふえてもいいです」と、仕事の話を終ると、柔らかな態度になった。
『三田君、覚えているかい? 小学校で六年生の時、一緒によく遊んだッけね。』
『エ? じゃ、あの、田川君か!』
私はこの奇遇に驚いた。彼がまだ別冊文春の編集長のころ、会った時には、そんな話も出なかったし、また記憶もよみ返ってこなかったのである。
田川君の態度には、編集長としての、「悪徳記者」を取上げる気持と、それにより添うように、この落ち目の旧友に、十分な弁明の場を与えてやりたい、といったような、惻隠の情がにおっているようだった。