憧れの社旗の車」タグアーカイブ

最後の事件記者 p.064-065 亡者原稿が、処女作品

最後の事件記者 p.064-065 新入社員九名が社会部に配属された。私たちの初年兵教官は、松木勇造現労務部長であった。その教育は文字通りのスパルタ式、我が子を千仭の谷底に落す、獅子のそれであった。

あの人に今一度、我が

名を想い起さしめ、呼ばさしめるものは、たとえ、駄菓子袋となろうとも、何時までも残っている、新聞の記録性の故である。もしも、アナウンサーならば、その声は、うたかたのように、瞬時にして消え去っていってしまうだろうに。

NHKには、「採用御辞退願」という、奇妙な一文を草して郵送し、私はあこがれの新聞記者になったのである。

当時の読売は、中共の〝追いつき、追いこせ〟運動のように、朝毎の牙城に迫ろうとして活気にみちあふれていた。朝気みなぎるというのであろうか。

感激の初取材

編集局の中央に突っ立っている、正力社長の姿も良く毎日のように見かけた。誰彼れとなく、近づいては話しかけ、すべての仕事が社長の陣頭指揮で、スラスラと運んでいるようだった。

社会部をみると、報道班員として従軍に出て行くもの、無事帰還したもの、人の出入ははげしく、第一夕刊、第二夕刊と、緊張が続いて、すべてが脈打つように生きていた。

イガクリ坊主頭に、国民服甲号という、この新米記者も、即日働らきはじめていた。実に清新、

爽快な記者生活の記憶である。確か午前九時の出勤だというのに、当時の日記をみると、午前七時四十分、同二五分、八時五十分と、大変な精励ぶりだ。それに退社が六、七時、ときには九時、十時となっている。タイム・レコーダーが備えられていたので、正確な記録がある。

十名の新入社員は、九名までが社会部に配属された。私たちの初年兵教官は、松木勇造現労務部長であった。その教育は文字通りのスパルタ式、我が子を千仭の谷底に落す、獅子のそれであった。

入社第一日目に亡者原稿を、何も教えられずに書かされた。この数行の処女作品は、早大教授の山岸光宜文博の逝去であった。私のスクラップの第一頁に、この記事が、朝日、毎日のそれと並べてはられている。死亡記事でさえ、朝毎の記事と、優劣を競おうという心意気だったらしい。

第二日は、初の取材行だ。戦時中の代用品時代とあって、新宿三越で開かれていた、「竹製品展示会」である。今でもハッキリと覚えているが、憧れの社旗の車に、ただ一人で乗って、それこそ感激におそれおののいたものである。

車が数寄屋橋の交叉点を右折する時、社旗がはためいた。大型車にただ一人の、広い車内を見廻して、「これは本当だろうか!」とホオをつねってみたい気持だった。尾張町(銀座四丁目)

からバスにのれば、十五銭で済むのになア、と、何かモッタイないような気がした。

最後の事件記者 p.066-067 新聞とは冷酷無残なり

最後の事件記者 p.066-067 ページは繰られてゆくが、右手の朱筆は一向におりない。ついに読終った原稿は、一字の朱も入らずに、バサリと傍らのクズ籠に投げすてられてしまった。
最後の事件記者 p.066-067 ページは繰られてゆくが、右手の朱筆は一向におりない。ついに読終った原稿は、一字の朱も入らずに、バサリと傍らのクズ籠に投げすてられてしまった。

「これは本当だろうか!」とホオをつねってみたい気持だった。尾張町(銀座四丁目)

からバスにのれば、十五銭で済むのになア、と、何かモッタイないような気がした。

この感激のテイタラクだから、取材も大変なものである。待っていてくれた(アア、待たせておいたのではない!)車に飛びのり、帰社するや否や、書きも書いたり七十枚余りの大作、竹製品展ルポだった。

提稿をうけた松木次長は、黙って朱筆をとると、私の大作を読みはじめた。左手で原稿のページは繰られてゆくが、右手の朱筆は一向におりない。ついに読終った原稿は、一字の朱も入らずに、バサリと傍らのクズ籠に投げすてられてしまった。

呆然として立ちつくす私を、彼はふりむきもせずに、次の原稿に手をのばした。私は無視され、黙殺されていた。新米も新米、二日目記者の私は、自分をどう収拾したらよいか分らない。怒るべきなのか、憐れみを乞うべきなのか、お追従をいうべきなのか!

そこへ掃除のオバさんがきて、私の労作は大きなクズ籠にあけかえられ、アッと思う間もなく、反古として持ちさられてしまった。これは大変な教育であった。それからの私の記者生活を決定づけたのは、この時であり、また、新聞とは冷酷無残なりと覚えたのであった。

ビンタ教育

このような教育をうけた記憶は、軍隊時代にも一度ある。北支は河南省、温県という旧黄河沿いの一寒村に甲種幹部候補生として、保定への入学を控えていたころだった。

この温県は大変水の悪い所で、飲料水は村にたった一つの井戸だけ、他の井戸は雑用水にしか使えなかった。そこで、隊にも炊事の前に二つのドラムカンがあって、一つが飲料水、他が雑用水として汲み置いてあった。

ある日、演習が終って、班長の洗面水を汲むため、私は戦友より先にかけつけた。雑用水の蓋をとってみると、南無三、カラッぽである。飲料水はとみると、満々と入っている。ところがヒシャクが見えない。兵は拙速を尊ぶのだ。あたりを見廻したが、幸い人影がない。ままよとばかりに、私は洗面器を飲み水のドラムカンに突込み、班長のもとにかけつけた。

その夜である。ローソクの灯で自習をしていた私は、下士官室へ呼ばれた。すでに消燈はすぎて、夜も大分ふけていた。私の教育班長は、埼玉出身の飯田伍長。志願で入隊して下士候隊を卒業したての、十九才ばかりの、それこそ火の玉のように張り切った男だった。もちろん、私より

数年も若いのだ。