新聞というマンモス
『この記事は違っている。訂正してもらいたい』
『何処が違っているのです』
『当局ではこうみている、という形で記者の主観が入っている。当局とは何か、誰か、それを明らかにしてもらいたい』
『貴君が何時、何処で、いかなる理由で逮捕された、という事実を否定するのですか』
何というおろかなことだろう。私を「グレン隊の一味」に仕立てたかの如き、新聞記事に、抗議をしに各社を訪れたところで、その問答の中味は、このように判りすぎるほど判っていたのである。
担当の取材記者は、その社の応接室で、かって私がしたように、私の抗議を突っぱねるに決っている。もちろん、決してウソは書いていないからである。
しかし、新聞記事というものは、好意をもって書くのと、ことさらに悪意をもたなくとも、好意を持たずに書くのとでは、読者へ与える印象には、全く雲泥の差がある。たった一行、たった
一つの単語で、ガラリと変ってしまうのである。ことに、限られたスペースの新聞記事では、微妙な事件のニュアンスなどは全く消えさり、事実というガイコツだけが不気味に現れるのだ。
私は新聞記者である。新聞というマンモスを良く知っているつもりである。私の記事が真実ではない、なぞと、蟷螂の斧の愚はやめよう。私は田川編集長の期待に応えて、面白い原稿を書こうと考えた。
文春の記事を読んだ、福岡県の田舎の方から手紙をもらった。『……かかる目に見えない暴力と斗って下さい。しかし、あなたには記事にして発表する場と力があります。まだまだ弱い立場の人が沢山いるのです……』