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最後の事件記者 p.076-077 『ウン、つまらんね』

最後の事件記者 p.076-077 一枚ペラ(新聞一頁)の新聞だというのに、裏の社会面の三分の二を埋めて、私のはじめての、署名原稿が、デカデカと出ているではないか。
最後の事件記者 p.076-077 一枚ペラ(新聞一頁)の新聞だというのに、裏の社会面の三分の二を埋めて、私のはじめての、署名原稿が、デカデカと出ているではないか。

東京に帰りついた翌日、私は出社した。二年間の捕虜生活も、新聞記者にもどったよろこびで、身体は元気一ぱい、何の疲れもなかった。竹内部長はきさくに片手をあげて、編集の入口でマゴついている私を呼んだ。森村次長が早速いった。

『何か書くかい? 書けるかい?』

『エー、もちろん、書かせて下さい』

森村次長は、捕虜から帰ったばかりの私が、使いものになるかどうかみようと思ったらしい。私はその日帰宅すると、徹夜でシベリヤ抑留記を書いて持っていった。

『ウン、つまらんね』

軽くイナされてしまった。私は実のところ、何を書いていいか判らなかったのだ。森村次長は、ただ「書くかい?」といっただけ、私は心中腹を立てて、その原稿を取りもどすと、またその夜も徹夜した。今度は、新聞記者のみた、シベリヤ印象記を書いた。

『ウン、これなら使える。御苦労さん。しばらく、挨拶廻りもあるだろう。休んでいいよ』 やっと、ネギライの言葉がもらえた。

数日後、私は郷里の盛岡で、驚きと感激に胸をつまらせながら、読売新聞をみつめていた。一

枚ペラ(新聞一頁)の新聞だというのに、裏の社会面の三分の二を埋めて、私のはじめての、署名原稿が、デカデカと出ているではないか。その記事を読みながら、私は涙をポトポトと、紙面に落した。

——生きていてよかった。兵隊も捕虜も、この日のための苦労だったのだ。

しみじみとした実感だった。あの玉音放送の時の、躍り上らんばかりのよろこび、「またペンが握れる」が、咋日のように、胸に迫ってきた。

署名入り処女作

昭和二十二年十一月二十四日(月)

抑留二年、シベリア印象記

本社記者 三田和夫

ナゾの国ソ連と呼ばれた通り、この国で見たもの聞いたものには、ついにナゾのままで終ったことが多かったが、うかがい得た限りでは、いろいろと興味あることばかりであった。入ソした われわれは、いたるところで大歓迎をうけた。というのは、列車が停るたびごとに、食料品や煙草を抱えた人々が押しよせてきて、物交をせがんだのだった。

最後の事件記者 p.078-079 彼らには粗衣もなかった

最後の事件記者 p.078-079 そして満州からシベリアに向う軍事列車は、兵器の上に在留邦人の家庭から持ってきたらしいイス、机から、ナベ、カマ、額ぶちにいたるまで、山と積んで、我々を追い越していった。
最後の事件記者 p.078-079 そして満州からシベリアに向う軍事列車は、兵器の上に在留邦人の家庭から持ってきたらしいイス、机から、ナベ、カマ、額ぶちにいたるまで、山と積んで、我々を追い越していった。

われわれは、いたるところで大歓迎をうけた。というのは、列車が停るたびごとに、食料品や煙草を抱えた人々が押しよせてきて、物交をせがんだのだった。

一人の兵隊が、試みに赤フンを外して差出すと、女たちが殺到してきて奪いあったが、やがて彼は、得々として赤フンを頭に被った女から、沢山の煙草をもらって当惑してしまった。

子供に鉛筆をネダられた母親は、新しい一本の鉛筆の代償に、バケツ一杯のジャガ芋を車中へほうりこんでくれた。軍用石ケンを鼻に押しあてて、匂いをかぎながら喜ぶ娘たち、吸いかけのタバコをせがむハダシの子供、ライターをみて逃げ出す男、ピカピカ光る爪切りをみて、何か判らずヒネリ廻す将校と、あらゆる階級の老若男女が集ってきた。

そして満州からシベリアに向う軍事列車は、兵器の上に在留邦人の家庭から持ってきたらしいイス、机から、ナベ、カマ、額ぶちにいたるまで、山と積んで、我々を追い越していった。

勤労者と農民の祖国と謳い、真の自由の与えられた、搾取のない国と誇る社会主義国家の現実は、こうしてわれわれに、ただ驚異を与えながら展開していった。もちろん、流刑植民地という、極北の特殊地帯シベリアの、一炭坑町チエレムホーボにあって、抑留二年の間に私が見聞したことどもが、あの独ソ戦を戦い抜いた、ソ連の姿のすべてでないことはいうまでもない。

日本人の入ソ以来、軍の被服は街にはんらんした。男も女もカーキ色の軍服を着ている。被服類の不足は一番はげしく、われわれも収容所内で、ソ連の将校や兵隊に奪われるため、どんどん地方人たちと交換をした。

雨具などもちろんなく、二年間に街中でコーモリをさした人を二人みかけただけで、男も女も、みな雨にぬれながら平気な顔をして歩き、また働らいていた。クツ下はバルチヤンキと呼ぶ四角い布で、それを巧みに足に巻いた。粗衣という言葉があるが、彼らには粗衣もなかった。

「働かざる者は食うべからず」は「食うためには働かざるべからず」であった。労働の種類に応じて、パンの配給量は規定されていたし、働らかないものには、学童とか妊婦とか特殊なものを除いて、パンの配給がないので、女も子供も働きに出る。

私の作業隊の監督は、一家六人暮しであったが、父親が炭坑の監督、長女(一六)がハッパの火薬かつぎ、長男(一三)が馬方と、三人が炭坑で働らき、日に三・六キロのパンをもらい(一・二キロ宛)、母親と次男(一〇)次女(八)とも六人で、日に一・六キロのパンを食べ、二キロのパンはバザールで売って生活を立てていた。彼らの生活は食うことで一ぱいであった。