三浦逸雄先生に教わって、はじめて、ジャーナリズムへの開眼を受けたのだった。
『ヨシ、新聞記者か、少くともジャーナリストになろう!』
私はそう決心した。しかし私は昔の苦学生で、今でいうアルバイト学生だった。次兄との約束
もあり、銀座の喫茶店のボーイ兼バーテン兼マネージャーをしたり、コンサート・マネージャーをしてみたりして、小遣銭、というより遊ぶ金を稼いだのだった。
太平洋戦争が始まり、日本軍がマニラを占領するや、ライフの向うを張って、フィリピン向けに作られた、国策グラフ誌「ニッポン・フィリピンズ」が発刊されると、午後からその編集部につとめて、故人のユーモア作家小此木礼助に編集を教わり、二紀会の橋本徹郎や若き日の亀倉雄策にレイアウトを教わったりした。
そして、日大卒業の時がきた。戦争はすでにたけなわになっていて、我々は半年の繰り上げ卒業であった。私の日大入学に反対した官学派の長兄とは、その時以来ケンカ別れであった。同じ家にいても口一つきかなかったのだ。私はこの卒業の時に、何とか長兄をヘコましてやりたいものだと考えた。
そのため、もちろん兵隊に行って、戦死をするに違いないと思ったが、公募する会社の入社試験を受けて、長兄と仲直りする機会を作ろうと思ったのである。三浦先生に相談して、朝日、読売、NHKのアナウンサーと、三社を受験した。みな、それぞれに何十倍という競争率だった。
試験問題をみると、さすがにどこでも時局色があふれていた。朝日の作文は、「戦争と科学技術」
単語には、承詔必謹とか七生報国といった類いで、読売も、論文が「決戦下新聞の使命について」、単語となると、波動兵器、応徴士、広域行政などで、和文外国訳が東条首相の訓示といった有様だった。
成績には、三社とも十分な自信があったのだが、朝日からは「残念ながら、貴意に添い難く……」の返事がきた。不思議に思った私は、同郷の大先輩であった故伊東圭一郎出版局長をたずねて、事情を調べて頂いた。すると、「試験成績は合格圏内だったのだが、出身校が……」と、いい難そうに説明されたのである。
激怒した私は、数寄屋橋の上から朝日新聞社を振り仰いで、ハッタとばかりにニラミつけた。
『畜生メ! 見ていろ、あとで朝日が口惜しがるような大記者になって見せるゾ!』
と、誓ったものである。朝日の三階のバルコニーから、演説をしてみたいというのが、私の夢だったからだ。
官学出と私学出
読売とNHKとからは、予期通り採用通知がきた。読売は約五百名の志願者から、十名を採用 したが、一番が慶応、二番が私の日大、東大が五番、京大が七番であった。何故こんなことを覚えているかというと、わざわざ人事部へ行ってきいてきたからである。