サツ廻り記者
印象記の結ぶ恋
当時、私は次兄の家の二階に、いわば下宿していた。次兄は早稲田の助教授をしていて、朝早く夜早い生活である。ところが、まだ夕刊のない時代なので、新聞記者の生活は、朝遅く夜も遅いという、生活のズレがあったのである。
深夜帰宅して、寝ている兄や義姉に玄関のカギをあけてもらうのは、大変心苦しいことだったが、住宅難時代なので、アパートはおろか、下宿さえもなかった。私はようやく結婚しようかと考えるようになった。
長い間、外地で生活してきた私には、まだモンペや軍服が銀座の表通りを歩いていて、少しもおかしくない日本だったけれど、女の人が美しく見えて仕方がなかった。第一、ナホトカ港で、
引揚船の舷門に立って出迎えてくれた、日赤の看護婦さんの美しかったことは、それこそ眼も眩むばかりであった。
本社勤務の遊軍記者をしていて、帝銀事件だ、寿産院だと、いろんな事件が次から次へと起るのに追廻されながらも、私は、まだ消息さえなくて私に問合せてくる留守家族のために、 調査しては手紙の返事を書き、慰めたり励ましたりしていた。
保定の同期生で、師団司令部付だった友人の消息を調べたのも当然である。そして、懸命の調査の結果、彼が元気でシベリアにいることを割り出した。私は、友人の家にはがきを出し、「消息がわかったから、お序の時に社におより下さい」といってやった。
そして、私は友人の妹と二人切りで、はじめて逢った。友人の消息を伝え、二十円のコーヒーと五十円のヤキリンゴを前に、シベリアの話がはじまっていた。時間があったので、映画をみることになり、帝劇でジャン・マレエの「悲恋」をみたのである。日記をみると、入場料四十円、ヤキリンゴよりも、帝劇の方が十円も安いのだから驚いた。
私は結婚の決心を、その日に決めてしまった。竹内社会部長の仲人で、二十三年四月二十二日に高島屋の結婚式場で挙式した。その時には、すでにサツ廻りとして、上野へ出ていたのであ
る。高木健夫さんが、シベリア印象記の結ぶ恋と聞いて、「ウン、そりゃ、書けるナ」と冷やかされた。