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雑誌『キング』p.22上段 シベリア抑留実記 収容所生活

雑誌『キング』昭和23年2月号 p.22 上段
雑誌『キング』昭和23年2月号 p.22 上段

をたくので室内は冬でもあたたかいが、炭坑で働きながら成績不良のため石炭の持ちかえりを止められ、寒さで眠れぬこともしばしばあった。気候、風土、作業になれ、畠など作ったり、碁、将棋、麻雀などの娯楽をたのしめる人間らしい生活に入ったのは、今年の春からであった。

衣類は日本軍のもので、満洲から運んできたものを貸与してくれた。終戦当時、関東軍の貯めこんでいた被服は莫大な量で約三十年分あったというが、多くの部隊は満人の掠奪やソ軍の占領前に必要量を確保したので、私達は持てるだけの新しい衣類を抱えて入ソした。被服類の全くないシベリアのことで、ソ連兵や将校までが機会あるごとに掠めとったし、一般人は隙をみては掻っ払うか物交をせがんだので、どうせとられるならという気持で、警戒兵の監視をくぐって売却したりパンや煙草と交換し、ついには着たきり雀になった。やがて薄い作業服などソ連の被服が支給され、フハイカという綿入れ服、編上靴などまで渡ったが、これもすべて炭坑だからもらえたので、労働が激しく品が悪いのですぐボロになったが、他の一般作業に比べるとまだまともな身なりをしていた。

紙につまったのには困った。便所の紙だけは必要かくべからざるものだったから、入ソ当時たくさんあった書籍類がたちまち影をひそめ、

最後の事件記者 p.078-079 彼らには粗衣もなかった

最後の事件記者 p.078-079 そして満州からシベリアに向う軍事列車は、兵器の上に在留邦人の家庭から持ってきたらしいイス、机から、ナベ、カマ、額ぶちにいたるまで、山と積んで、我々を追い越していった。
最後の事件記者 p.078-079 そして満州からシベリアに向う軍事列車は、兵器の上に在留邦人の家庭から持ってきたらしいイス、机から、ナベ、カマ、額ぶちにいたるまで、山と積んで、我々を追い越していった。

われわれは、いたるところで大歓迎をうけた。というのは、列車が停るたびごとに、食料品や煙草を抱えた人々が押しよせてきて、物交をせがんだのだった。

一人の兵隊が、試みに赤フンを外して差出すと、女たちが殺到してきて奪いあったが、やがて彼は、得々として赤フンを頭に被った女から、沢山の煙草をもらって当惑してしまった。

子供に鉛筆をネダられた母親は、新しい一本の鉛筆の代償に、バケツ一杯のジャガ芋を車中へほうりこんでくれた。軍用石ケンを鼻に押しあてて、匂いをかぎながら喜ぶ娘たち、吸いかけのタバコをせがむハダシの子供、ライターをみて逃げ出す男、ピカピカ光る爪切りをみて、何か判らずヒネリ廻す将校と、あらゆる階級の老若男女が集ってきた。

そして満州からシベリアに向う軍事列車は、兵器の上に在留邦人の家庭から持ってきたらしいイス、机から、ナベ、カマ、額ぶちにいたるまで、山と積んで、我々を追い越していった。

勤労者と農民の祖国と謳い、真の自由の与えられた、搾取のない国と誇る社会主義国家の現実は、こうしてわれわれに、ただ驚異を与えながら展開していった。もちろん、流刑植民地という、極北の特殊地帯シベリアの、一炭坑町チエレムホーボにあって、抑留二年の間に私が見聞したことどもが、あの独ソ戦を戦い抜いた、ソ連の姿のすべてでないことはいうまでもない。

日本人の入ソ以来、軍の被服は街にはんらんした。男も女もカーキ色の軍服を着ている。被服類の不足は一番はげしく、われわれも収容所内で、ソ連の将校や兵隊に奪われるため、どんどん地方人たちと交換をした。

雨具などもちろんなく、二年間に街中でコーモリをさした人を二人みかけただけで、男も女も、みな雨にぬれながら平気な顔をして歩き、また働らいていた。クツ下はバルチヤンキと呼ぶ四角い布で、それを巧みに足に巻いた。粗衣という言葉があるが、彼らには粗衣もなかった。

「働かざる者は食うべからず」は「食うためには働かざるべからず」であった。労働の種類に応じて、パンの配給量は規定されていたし、働らかないものには、学童とか妊婦とか特殊なものを除いて、パンの配給がないので、女も子供も働きに出る。

私の作業隊の監督は、一家六人暮しであったが、父親が炭坑の監督、長女(一六)がハッパの火薬かつぎ、長男(一三)が馬方と、三人が炭坑で働らき、日に三・六キロのパンをもらい(一・二キロ宛)、母親と次男(一〇)次女(八)とも六人で、日に一・六キロのパンを食べ、二キロのパンはバザールで売って生活を立てていた。彼らの生活は食うことで一ぱいであった。