シベリヤ印象記(10)『眠られぬ夜』 平成12年9月11日
ペールヴォエ・ザダーニエ! これがテストに違いなかった。民主グループの連中が、パンを餌にばらまいて集めている反動分子の情報は、当然ペトロフ少佐のもとに報告されている。それと私の報告とを比較して、私の“忠誠さ”をテストするに違いない。
そして、「忠誠なり」の判決を得れば、次の課題、そしてまた次の命令…と、私には終身暗いカゲがつきまとうのだ。
私は、もはや永遠に、私の肉体のある限り、その肩を後ろからガッシとつかんでいる、赤い手のことを思い悩むに違いない。そして、…モシ誓ヲ破ッタラ…と、死を意味する脅迫が、…日本内地ニ帰ッテカラモ…とつづくのだ。
ソ連人たちは、エヌカーの何者であるかを良く知っている。兄弟が、友人が、何の断わりもなく、自分の周囲から姿を消してしまう事実を、その眼で見、その耳で聞いている。私にも、エヌカーの、そしてソ連の恐ろしさは、十分すぎるほどに判っているのだ。
——これは同胞を売ることだ。不当にも捕虜になり、この生き地獄の中で、私は他人を犠牲にしても、生きのびねばならないのか!
——あるいは私だけ先に日本へ帰れるかもしれない。だが、それもこの命令で認められればの話だ。
——次の命令を背負ってのダモイ(帰国)か。私の名前は、間違いなく復員名簿にのるだろうが、その代わりに、永遠に名前ののらない人もできるのだ。
——私は末男で独身ではあるが、その人には妻や子供があるのではあるまいか。
——誓約書に書いたことは、果たして正しいことだろうか。許されることだろうか。弱すぎはしなかっただろうか。
——だが待て、しかし、一カ月の期限はすでに命令されていることなのだ…。
——ハイと答えたのは当然のことなのだ。人間として、当然…。いや、人間として果たして当然だろうか?
——大体からして無条件降伏して、武装を解いた軍隊を捕虜にしたのは国際法違反じゃないか。待て、そんなことより、死の恐怖と引き換えに、スパイを命ずるなんて、人間に対する最大の侮辱だ。
——そんなこと今更いってもはじまらない。現実の俺は命令を与えられたスパイじゃないか。
私はバラッキ(兵舎)に帰ってきて、例のオカイコ棚に身を横たえたが、もちろん寝つかれるはずもなかった。転々として思い悩んでいるうちに、ラッパが鳴っている。
「プープー、プープー」
哀愁を誘う、幽かなラッパの音が、遠くの方で深夜三番手作業の集合を知らせている。吹雪はやんだけれども、寒さのますますつのってくる夜だった。(つづく) 平成12年9月11日