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編集長ひとり語り第34回 民主化を阻む元凶は勲章だ

編集長ひとり語り第34回 民主化を阻む元凶は勲章だ 平成11年(1999)11月6日 画像は三田和夫44歳(こどもの国 1965.08.17)
編集長ひとり語り第34回 民主化を阻む元凶は勲章だ 平成11年(1999)11月6日 画像は三田和夫44歳(こどもの国 1965.08.17)

■□■民主化を阻む元凶は勲章だ■□■第34回■□■ 平成11年(1999)11月6日

恥ずかしながら…と、横井さん流にいえば私は、正八位勳七等で宮中席次第何階だかに属する身分だった。といっても、それは戦争中に陸軍少尉に任官したから、それについてきたものである。当時の定番だったのだ。だが残念ながら、“証文”はないのだ。同期生には、その勲記という天皇のサインのついた証文を持っている者もいる。私たちは、野戦軍からシベリア捕虜と、日本を留守にしていた。一方、運のよい仲間は、日本国内で終戦を迎えた。そしたら宮内省から通知がきて、「正八位」の書類を受け取りに来いという。だから同期の少尉たちは、その証文をもらったというのだ。

ところが、その証文の発行には期限があり、私が復員してきた時には、もう期限切れでもらえなかった。のちにシベリア捕虜の“御苦労賃”として、一律に10万円の国債が支給された。菊の紋章の入った銀杯も、記念品として送られてきた。同期生会の席上、正八位組が、アンナ紙切れよりも10万円のほうが良かった、と大笑いしたものだった。

この正八位勳七等の位記勲記の支給に期限が設けられたのは、進駐軍の占領政策の目玉のひとつ「栄典の廃止」と関係があったのだろう。華族制度や勲章の廃止が命令されたのである。そして、昭和27年春の講和条約調印から、六カ月の切替期間があり、日本はその秋に晴れて独立国になった。

その一年後の28年9月18日付の閣議決定で、「緊急の叙勲取扱いに関する件」があり、さらに10年後の38年7月12日付で、「生存者の叙勲開始について」と閣議決定された。池田内閣の時である。こうして、叙勲制度というか、勲章が復活したのだった。しかも、生きている人に対して、等級を付けた勲章を政府が授与するということだ。

戦前は、成金で金ができると、まず女買い、それに飽きて、旅行。そのあとが名誉(勲章)を期待しての政治家買い、と相場が決まっていた。そのため、売勳事件などが起き、生存者叙勲は特別なケースで、死後、追贈されるのが主流であった。

ところが、生存者叙勲が主流で、政治家と官僚は、勲章をチラつかせて権力をほしいままにするのである。北朝鮮の将軍たちは、左胸だけでは足りず右胸にまで数多く飾り立てて、宮沢賢治の「バナナン将軍」を思わせる漫画スタイルである。日本で、スポーツ選手が金メダルを背広の胸につけて街を歩いたら、笑い者になってしまうだろう。

第一、どうして等級をつけるのか。これほど、人間に対する侮辱はあるまい。しかもその等級差別の根拠がアイマイだからだ。慣例として、役職や経歴が根拠になっているようだが、日本新聞協会という業界団体のボスが勲一等で、日本雑誌協会長という同じ業界団体の長が勳二等としたら、新聞と雑誌で、それほどの違いがあるものなのか。

中曽根元首相が大勳位で、他の首相経験者がどうなるのか。村山社民党首相はどうなるのだ。4日の午後、参院の代表質問のテレビをつけっ放しでいたら、小渕サマサマで、歯の浮くようなオベンチャラをいう奴がいる。何奴かと思って画面を見たら、参院自民党幹事長で小渕派の元郵政省人事局長で、労相経験者。72歳にもなって61歳におもねるのは、もう一度大臣になりたいか、勲章欲しさとしか思えないではないか。

文化勲章、文化功労者、人間国宝などは、それぞれの経歴と技能とが、万人とはいえなくとも、それぞれの世界で認められる人物だから、それほど異論は出ない。ただ、早いか遅かったかの違いだけである。

生存者叙勲、勲章等級制度は、二十一世紀に向けてやめにすべきである。名誉欲という人間の弱点につけこむ制度は、商工ローンの手口と同じである。蛇足ながら、「大臣」という封建制の名称も「長官」に統一すべし。 平成11年(1999)11月6日