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読売梁山泊の記者たち p.184-185 名誉毀損の告訴状が何十本と
香港でさえ、一九九七年には中国に返還される。「租界」とは、すでに死語なのである。
日本が、はじめて経験した〝植民地〟状況が、原四郎をして、こういわしめたのだ。初代マニラ支
局長、東亜部次長という経歴の彼には、米軍占領下の東京は、どう見ても〝トーキョー租界〟であった。
そして、十月二十八日の特権消滅の日に「東京租界」キャンペーンを打とう、というプランが生まれたのであった。
東京租界のプラン会議は、原部長、辻本デスク、三田、牧野拓司の四人で持たれた。まず、日本の独立後、占領国人や第三国人に与えられていた、六カ月の猶予期間が終了する昭和二十七年十月二十八日以降の、三無原則(無統制、無税金、無取締)の横行について、私のレクチュアから始まった。
通訳である牧野は、雰囲気を理解するために、オブザーバーとして出ていた。
私のレクチュアは、その時までに、私に蓄えられていた、占領国人たちの、アンダーグラウンドの実情についてであった。バクチ、麻薬、ヤミ、密輸、売春から、それらを資金源とする、諜報の世界について、部長やデスクからの質問が、矢継早に浴びせられた。
こうした会議が数回もたれて、さらに、部長とデスクとの打ち合わせもつづいた。大体の構成がまとまってきて、取材のGOサインが出された。
「イイカ、三田! 奴らから、名誉毀損の告訴状が、何十本と舞いこんできても、ビクともしない、堂々たる取材をやれ!」
原四郎は、それだけいうと、会議の席を立った。
新聞記事の場合、取材が正確で真実の証明ができれば、刑事は免責されるから、原四郎は、それを
「堂々たる取材」といったのだった。
取材記者にとって、こんな嬉しい言葉はない。ウダウダと細かい注意などせずに、一言だけ、「お前を信頼しているゾ」と、そういわれたのである。
九月はじめ、この企画を与えられて、まず不良外人の一般的な動静から調べ出した。内幸町の富国ビル、日比谷の三信ビル、日活国際会館(現・日比谷パークビル)という、彼らの三大基地をブラつく毎日がはじまった。取材費伝票を切って、小遣銭はタップリある。私は、そのビルのグリルやバー、レストランやパーラーで、のんびりと構えていた。
長身の私は、一見中国人風なので、取材を終えて富国ビルあたりから出てくると、「ハロー・ボーイさん! シューシャン!」と、靴磨きの少年(いまの豊かな日本では、ホントに信じられないことだが、戦災孤児たちが進駐軍の靴を磨いていた)が、声をかけた。
毎日、米人や中国人の商社まわりをしているうちに、私も、バタ臭くなったのだろうか。ニヤリと笑って、私は、少年に十円札(米国とデザインされている、といわれた十円札があった)を、チップでやった。
〝外事特高のヤマチン〟こと山本鎮彦・公安三課長に、意見具申をしたことがある。
「ネ、課長。三課のデカたちの靴、なんとかしてやんなさいョ。背広もそうだけど、自警会の売店の月賦にでもして、新調させねば…尾行や張りこみで、ホテルのロビーにいたらデカのカンバン出しているようなモンだよ」