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最後の事件記者 p.066-067 新聞とは冷酷無残なり

最後の事件記者 p.066-067 ページは繰られてゆくが、右手の朱筆は一向におりない。ついに読終った原稿は、一字の朱も入らずに、バサリと傍らのクズ籠に投げすてられてしまった。
最後の事件記者 p.066-067 ページは繰られてゆくが、右手の朱筆は一向におりない。ついに読終った原稿は、一字の朱も入らずに、バサリと傍らのクズ籠に投げすてられてしまった。

「これは本当だろうか!」とホオをつねってみたい気持だった。尾張町(銀座四丁目)

からバスにのれば、十五銭で済むのになア、と、何かモッタイないような気がした。

この感激のテイタラクだから、取材も大変なものである。待っていてくれた(アア、待たせておいたのではない!)車に飛びのり、帰社するや否や、書きも書いたり七十枚余りの大作、竹製品展ルポだった。

提稿をうけた松木次長は、黙って朱筆をとると、私の大作を読みはじめた。左手で原稿のページは繰られてゆくが、右手の朱筆は一向におりない。ついに読終った原稿は、一字の朱も入らずに、バサリと傍らのクズ籠に投げすてられてしまった。

呆然として立ちつくす私を、彼はふりむきもせずに、次の原稿に手をのばした。私は無視され、黙殺されていた。新米も新米、二日目記者の私は、自分をどう収拾したらよいか分らない。怒るべきなのか、憐れみを乞うべきなのか、お追従をいうべきなのか!

そこへ掃除のオバさんがきて、私の労作は大きなクズ籠にあけかえられ、アッと思う間もなく、反古として持ちさられてしまった。これは大変な教育であった。それからの私の記者生活を決定づけたのは、この時であり、また、新聞とは冷酷無残なりと覚えたのであった。

ビンタ教育

このような教育をうけた記憶は、軍隊時代にも一度ある。北支は河南省、温県という旧黄河沿いの一寒村に甲種幹部候補生として、保定への入学を控えていたころだった。

この温県は大変水の悪い所で、飲料水は村にたった一つの井戸だけ、他の井戸は雑用水にしか使えなかった。そこで、隊にも炊事の前に二つのドラムカンがあって、一つが飲料水、他が雑用水として汲み置いてあった。

ある日、演習が終って、班長の洗面水を汲むため、私は戦友より先にかけつけた。雑用水の蓋をとってみると、南無三、カラッぽである。飲料水はとみると、満々と入っている。ところがヒシャクが見えない。兵は拙速を尊ぶのだ。あたりを見廻したが、幸い人影がない。ままよとばかりに、私は洗面器を飲み水のドラムカンに突込み、班長のもとにかけつけた。

その夜である。ローソクの灯で自習をしていた私は、下士官室へ呼ばれた。すでに消燈はすぎて、夜も大分ふけていた。私の教育班長は、埼玉出身の飯田伍長。志願で入隊して下士候隊を卒業したての、十九才ばかりの、それこそ火の玉のように張り切った男だった。もちろん、私より

数年も若いのだ。