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最後の事件記者 p.062-063 たとえ駄菓子袋となろうとも

最後の事件記者 p.062-063 新聞の最大の強味は記録性である。何時でも好きな時に、とり出して読めるという、この記録性のゆえに、私は読売をえらんだのだった。
最後の事件記者 p.062-063 新聞の最大の強味は記録性である。何時でも好きな時に、とり出して読めるという、この記録性のゆえに、私は読売をえらんだのだった。

私は、トップ記事ならば、必らず、大ゲラが出るまで残って、自分の記事の内容とその扱い方とについて、納得がいかなければ帰らなかったほどである。

それが新聞記者のよろこびであり、一文能く人を殺し得る記者の責任でもあるはずだ。 〝新聞にコロされた〟例はあるが、〝ラジオにコロされた〟というのはきかない。

最近、ラジオやテレビの人たちの、仕事があとに残らない嘆きを聞く。テレビも電気紙芝居と自嘲する。新聞の最大の強味は記録性である。ラジオとの本質的な違いである。何時でも好きな時に、とり出して読めるという、この記録性のゆえに、私は読売をえらんだのだった。

あこがれの新聞記者

というのは、昭和十八年といえば、もはや戦争をはなれて、何一つとして判断できない時期である。私は、天皇陛下のために、一命を鴻毛の軽きにおくことに、いささかもちゅうちょしない青年だったのである。

戦争に征くからには、想い出を持っていきたかった。息を引きとる最後の時には、天皇陛下万才というよりは、もっと身近かなことを考えたいと思った。母親! それもよい。だが、少し違う。

私は、一人の女性のことを想った。その人とは、もう別れて何年にかなる。青森県の片田舎で、人妻になったとか聞く。その人のことを、何かほのぼのとした気持で懐しんでいたのである。何故ならば、私はその人で、満二十才の誕生日の夜に、男になったからだ。

何人かの子供が生れて、村の駄菓子屋で子供にせがまれるまま、鉄砲玉を買ってやるその人。黒い飴玉を一粒、一粒、古新聞の袋からハガして、口に運んでやっている時、フト、彼女の視線が一点に凝集される!

その袋の上の黒い幾つかの点、活字が次々に大きくなって、彼女の眼に飛ぴこんでくる。そこに書かれた文字は、〝◯◯にて、三田特派員発〟という、私の署名記事である。

彼女はハッと胸をつかれて、その文字を確かめるように読みかえすであろう。袋のシワをのばしのばし、アチコチと千切れてしまっているその記事を読みふけって、あの夜のことを想い起す。もしや、この人は……。

そのころ、或は私は、祖国を遠くはなれた異境で、誰一人みとりする人とてなく、静かに眼をつむり、魂は神となって鎮まろうとしているかもしれない。それでいい。あの人に今一度、我が

名を想い起さしめ、呼ばさしめるものは、たとえ、駄菓子袋となろうとも、何時までも残っている、新聞の記録性の故である。もしも、アナウンサーならば、その声は、うたかたのように、瞬時にして消え去っていってしまうだろうに。

最後の事件記者 p.064-065 亡者原稿が、処女作品

最後の事件記者 p.064-065 新入社員九名が社会部に配属された。私たちの初年兵教官は、松木勇造現労務部長であった。その教育は文字通りのスパルタ式、我が子を千仭の谷底に落す、獅子のそれであった。

あの人に今一度、我が

名を想い起さしめ、呼ばさしめるものは、たとえ、駄菓子袋となろうとも、何時までも残っている、新聞の記録性の故である。もしも、アナウンサーならば、その声は、うたかたのように、瞬時にして消え去っていってしまうだろうに。

NHKには、「採用御辞退願」という、奇妙な一文を草して郵送し、私はあこがれの新聞記者になったのである。

当時の読売は、中共の〝追いつき、追いこせ〟運動のように、朝毎の牙城に迫ろうとして活気にみちあふれていた。朝気みなぎるというのであろうか。

感激の初取材

編集局の中央に突っ立っている、正力社長の姿も良く毎日のように見かけた。誰彼れとなく、近づいては話しかけ、すべての仕事が社長の陣頭指揮で、スラスラと運んでいるようだった。

社会部をみると、報道班員として従軍に出て行くもの、無事帰還したもの、人の出入ははげしく、第一夕刊、第二夕刊と、緊張が続いて、すべてが脈打つように生きていた。

イガクリ坊主頭に、国民服甲号という、この新米記者も、即日働らきはじめていた。実に清新、

爽快な記者生活の記憶である。確か午前九時の出勤だというのに、当時の日記をみると、午前七時四十分、同二五分、八時五十分と、大変な精励ぶりだ。それに退社が六、七時、ときには九時、十時となっている。タイム・レコーダーが備えられていたので、正確な記録がある。

十名の新入社員は、九名までが社会部に配属された。私たちの初年兵教官は、松木勇造現労務部長であった。その教育は文字通りのスパルタ式、我が子を千仭の谷底に落す、獅子のそれであった。

入社第一日目に亡者原稿を、何も教えられずに書かされた。この数行の処女作品は、早大教授の山岸光宜文博の逝去であった。私のスクラップの第一頁に、この記事が、朝日、毎日のそれと並べてはられている。死亡記事でさえ、朝毎の記事と、優劣を競おうという心意気だったらしい。

第二日は、初の取材行だ。戦時中の代用品時代とあって、新宿三越で開かれていた、「竹製品展示会」である。今でもハッキリと覚えているが、憧れの社旗の車に、ただ一人で乗って、それこそ感激におそれおののいたものである。

車が数寄屋橋の交叉点を右折する時、社旗がはためいた。大型車にただ一人の、広い車内を見廻して、「これは本当だろうか!」とホオをつねってみたい気持だった。尾張町(銀座四丁目)

からバスにのれば、十五銭で済むのになア、と、何かモッタイないような気がした。