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シベリヤ印象記(1) シベリヤ印象記のはじめに①

シベリヤ印象記(1)『シベリヤ印象記のはじめに①』 平成11年(1999)4月18日 画像は三田和夫22歳(左から2人目。歯を見せて笑顔 1943~1944ごろ)
シベリヤ印象記(1)『シベリヤ印象記のはじめに①』 平成11年(1999)4月18日 画像は三田和夫22歳(左から2人目。歯を見せて笑顔 1943~1944ごろ)

シベリヤ印象記(1)『シベリヤ印象記のはじめに①』 平成11年4月18日

1999年4月16日、ハルピン学院の最後の同窓会が催された。敗戦で消滅した、中国東北部ハルピン市にあった学院は、最後の学生さえも70歳を過ぎて、同窓会の維持が難しくなったという理由からだった。

この学校は、ロシア語とソ連事情の教育が中心だったので、東北部に進入してきたソ連軍によって、対ソスパイ養成機関とみなされてシベリアに送られたものが多かった。

と同時に、シベリア抑留の中心となったのは、在満部隊(旧関東軍)だったが、対ソ圧力であった関東軍では、ロシア語教育が行われており、通訳できる兵隊を養成していた。だが、私の所属していた北支軍では、そんな兵隊はいなかった。なにしろ、関東軍を南方戦線に抽出したあとに、北支軍をあてて、私たちの師団主力はソ満国境に出ていたが、移動の最後尾の私の大隊が長春市(旧新京)に到着したのが、1945年8月13日の夜だったほどだ。だからロシア語のロの字もわからない。

15日の天皇放送から、満州国軍の反乱、その鎮圧、在留婦女子の保護、治安の維持と目まぐるしい数日の後、ソ連軍の首都入城となった。国境地帯で交戦した気の立っているソ連軍は新京市内に入れず、日本軍と交戦していない部隊を入城させたというソ連司令部の話だったが、虐殺、強姦、掠奪は、日常茶飯事だった。家に押し入ってきたソ連兵が、父母の面前で娘をレイプしようとする。それを止めに入った父親に、“ダダダダッ”とマンドリン(ソ連製自動小銃)が火を噴く。母親も標的にされる——戦争の悲惨な姿が、一夜にして崩壊した満州帝国の首都で、絶え間なく展開されたのだった。

首都に武装した日本軍がいると、衝突の恐れがあるというので、半分だけ武装解除された日本軍は、南の公主嶺市に撤退する事になった。8月19日のことだった。半分というのは、重火器は取られたが、小銃、軽機関銃程度は認められた。公主嶺までの行軍の自衛のためである。事実、ソ連兵と共に暴徒化した満人たちも日本人を襲っていた。この新京での4日間の体験は、敗戦都市ではナニが起こるか、それこそ、筆舌に尽くし難い“地獄”であるということだ。

公主嶺は、かつて日本の軍都だった。だから兵舎の数が多い。新京から追われた私たちは、それらの施設に入って、まず食料の確保である。公主嶺の貨物廠(倉庫群)から、米、味噌、醤油を自分たちの部隊にどれだけ多く取りこめるかである。ここにはまだソ連軍が進駐していなかったのだ。

満州には、百万関東軍を30年間養えるだけの食料が備蓄されている、といわれた。事実、食料だけは豊富にあったが、兵器、弾薬はゼロに等しかった。そして、掠奪に群がる満人たちを追い払いながら、大型の荷車に山のように米を積んで兵舎に持ちこんだ。

衣類も新品が積まれていた。食料が終われば、衣類と酒と甘味品だった。北支軍は綿の軍服だったが、関東軍は日本と同じ羅紗(ラシャ=羊毛)の軍服だ。兵隊たちは争って羊毛服に着替えた。ネルの下着、毛の防寒下着もあった。北支では見たことのないものばかりだ。ことに、ウイスキーやチョコレートの入った航空食糧には驚いたものだった。

やがて、ソ連軍が進駐してきて、兵舎のまわりに歩哨が立った。将校の軍刀以外は、完全に武装解除されたからだ。兵営の中に軟禁されたことになる。日本に帰れるとばかり思いこんでいた私たちは、敗戦とはいえ元気一杯だった。毎朝起きると、フンドシをはじめ、下着、軍服とすべて新品に着替え、運動会を催したり、体操をしたりと、日本での新しい生活に備えていた。昨日1日着ただけの衣類は、塀の外に放り投げ、満人たちが拾っていった。

敗戦とはいえ、公主嶺の1カ月は天国さながらのゼイタク暮らしだった。虐殺やレイプも見聞きせず、帰国の希望に燃えた若者の集団生活で、ビールに砂糖を入れたりの悪フザケや、食べ放題、飲み放題の生活だったからだ。

昭和20年の10月も半ばすぎ、駅から貨車に乗った。列車で南下して朝鮮経由で祖国へ、と思いこんでいたのに、汽笛とともに列車は北上するではないか。「そうか。南下ルートは混んでいるからナ」と、不安を打ち消す噂が流れた…。だが、北上をつづける列車は、やがて満州里(満ソ国境の街)目指しての一本道へと進んでいった。

「シベリア送りだ」「捕虜だぞ」と、絶望的な声が無気味に列車を支配していた。私も覚悟を決めた時、あるひらめきがあった。新京での在留邦人保護の時、一軒の民家で拾った「日用日露会話」というポケットブックを思い出したのだった。(つづく) 平成11年4月18日

編集長ひとり語り第49回 戦争とはなんだ?(1)

編集長ひとり語り第49回 戦争とはなんだ?(1) 平成12年(2000)8月26日 画像は三田和夫23歳(前列左から2人目・軍刀・メガネ 三田小隊・黄河鉄橋防空隊1945.02~)
編集長ひとり語り第49回 戦争とはなんだ?(1) 平成12年(2000)8月26日 画像は三田和夫23歳(前列左から2人目・軍刀・メガネ 三田小隊・黄河鉄橋防空隊1945.02~)

■□■戦争とはなんだ?(1)■□■第49回■□■ 平成12年8月26日

敗戦記念日の8月15日をはさんで、マスコミは、その紙面(放映)で、投書を加えて「これが戦争だ」と、しきりにアジテーションをあおっていた。虐殺という言葉も、しきりに登場していたが、その言葉の意味をも確かめず、用いられていた。

例えば、参戦各国ともに見られるのだが、捕虜を並べて機銃で撃ち殺す——これは虐殺なのか。戦闘中に、銃砲弾で殺される。これまた虐殺なのだろうか。米軍の日本本土爆撃で、非戦闘員の女、子供、老人が死ぬのだが、虐殺なのだろうか。原爆はどうか——。

私は、あの雨の神宮外苑の学徒出陣式の1カ月前、昭和18年11月1日に入隊した。9月卒業で10月1日に読売入社。正力松太郎の日の丸を頂いて千葉県佐倉に入隊。しかし学徒根こそぎ動員が12月1日に入隊してくるので、中国に送られ、河南省黄河のほとりに駐屯したのち、保定の予備士官学校へ。4月入隊。その前に、原隊は南方転進で大半は輸送船ごと海底に沈んだと聞く。幹部候補生だけ残されたので、助かった次第だ。19年12月、卒業して見習士官となり、黄河の畔に戻った。

20年2月、重機関銃3丁を率いて、黄河鉄橋防空隊の高射砲大隊に配属され、鉄橋爆撃の米空軍との戦いとなった。B24爆撃機が一車線の細い鉄橋を爆撃するが、なかなか命中しない。泥深い河に落ち、橋脚をゆるがす。と同時に、鉄橋上の我が陣地に掃射を加えてくる。瞬時に通りすぎる機影めがけて応射する。射たれて射ち返す。殺されて殺し返す。これが「戦闘」である。

約1時間、爆弾を使い果たしたB24編隊は奥地の老河口飛行場に去る。陣地の土のうには弾痕があるが、部下の点呼。死傷なし。その瞬間に、スポーツの試合が終わったあとのような、爽快感を覚える。1日1回、きょうの定期便は終わったのだ。翌日から2、3日はP51機が高々度から、鉄橋の被害を調べにくる。そしてまた空襲である。5月までの4カ月間にB24一機を落とした。

その間に、北支派遣軍は、米空軍の根拠地老河口作戦を展開。私が原隊復帰をしてみると、中隊長は先任小隊長を連れて、その作戦に出ていた。米軍の本土上陸に備えて、四日市付近に帰国するハズだったが、満ソ国境の部隊を帰し、私たちはその後釜で満ソ国境白城子に部隊移駐が命じられた。大隊の集結が、作戦部隊の撤収を待っていて遅れ、8月13日夜、新京(長春)に到着し、9日のソ軍侵攻で、師団主力と分かれ、首都防衛軍に編入され、8月15日を迎える。

「…8月15日未明、有力なるソ軍戦車集団が首都新京に侵攻…。一兵能く一輌を撃破…」と、手榴弾5、6個を縛り、それを抱いての突撃という命令が出たのが、14日の夜更け。タコ壺を掘り、身を潜めて夜明けを待ったがキャタピラの音がしない。この時はさすがに「オレの人生も終わりだナ」と感じていた。が、正午に重大放送があるという予告で、15日の朝が快晴の太陽を輝かせていた。(この時のことは稿を改めて書きたい)

8月16日夜、ソ軍の先遣隊が市内に入ってきた。治安維持のため、市内巡察に一個分隊を連れて歩いていた私は、前方からくる部隊がソ軍と気付いて、全身總毛だったのを覚えている。だが、双方ともにオッカナビックリで、広い道路の両側をスレ違った。もしも、どちらかが発砲していたら、新京の無血占領はなかっただろう。

そして、20日から、掠奪、暴行、強姦がはじまった。強姦のあとは、必ず被害者を殺すのである。口封じであろう。

私が見たもの、聞いたもの、経験したもののすべては、みな「戦争」の小さな小さな一断片にすぎないのである。他の人のそれも同じである。それが、「これこそ戦争だ」と、力(リキ)み返って登場してくる。(続く) 平成12年8月26日