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シベリヤ印象記(3) シベリヤ印象記のはじめに③

シベリヤ印象記(3)『シベリヤ印象記のはじめに③』 平成11年(1999)7月3日 画像は三田和夫66歳(右から2人目ワイシャツネクタイ シベリア会1987.12.05)※シベリア会:シベリア・チェレムホーボ収容所の戦友会
シベリヤ印象記(3)『シベリヤ印象記のはじめに③』 平成11年(1999)7月3日 画像は三田和夫66歳(右から2人目ワイシャツネクタイ シベリア会1987.12.05)※シベリア会:シベリア・チェレムホーボ収容所の戦友会

シベリヤ印象記(3)『シベリヤ印象記のはじめに③』 平成11年7月3日

私たちを詰めこんだ貨車が、公主嶺から新京(長春)を過ぎ、ハルピンを経て国境の町、満州里からシベリアに入り、進路を西に向けた時から、貨車の中はどよめきが起こった。戦争が終わったのだし、テッキリ祖国日本へ帰れるものだと、誰もがそう思いこんでいたのだから、西に向かったということは、ようやく、自分たちが戦時捕虜になったことを教えてくれた。シベリアに入りながらも、列車は東に走り、ウラジオから日本へという、最後の夢が打ち砕かれたからだ。

簡単に旧軍の組織(建制)を説明しておこう。まず、現役兵(満20歳で徴兵)だけの部隊が甲編成。現役兵と召集兵(満二年の現役兵役を終わり、予備役になっていた者や、兵隊検査で乙種合格だった者なので、年齢は20代後半から30代の者)とが半々というのが、乙編成という。満州に駐屯して、対ソ圧力になっていた関東軍などは甲。私たちのように、中国本土に駐屯していたのは乙であった。関東軍は内地部隊と同じ編成だったが、支那派遣軍などは「野戦軍」と呼ばれ、実質的に臨戦体制だったのである。

それが、前回述べた「北支派遣・第十二軍・第百十七師団・第八十七旅団・独立歩兵第二百五大隊」である。これは組織の名称で、会社の中の局、部、課、班と同じだ。これが甲編成だと、3個小隊(大体12、3名の分隊が4個)で1個中隊。3個中隊で1個大隊。3個大隊で1個聯隊。3個聯隊で1個師団。というのが原則だった。師団長は中将、聯隊長は大佐、大隊長は少佐、中隊長は大尉か中尉、小隊長は少尉であった。

軍は「将校は国軍の楨幹」として、旧制中学2年から入学できる幼年学校、中学4年、5年から入学できる士官学校(幼年学校卒業生を含む。海軍は江田島の兵学校)と、職業軍人を育成した。士官学校を卒業すると見習い士官に進み、半年余りで陸軍少尉に任官する。さらに、大尉になると、軍官僚の養成のため陸軍大学を受験できる。実に、陸軍士官学校を卒業すると、21、2歳で少尉任官、大尉は24、5歳であった。それで「天皇陛下の軍隊」を指揮する能力が養われたのだ。

こうした職業軍人の将校は、時間と教育費を注ぎこみながら、少尉の役職は第一線小隊長だから、戦死率が高くモッタイないというので、予備士官学校を設け、一般兵(徴集)から幹部候補生を募った。試験にパスすると、その成績で甲種(士官適)と乙種(下士官適)とに分けた。甲種幹部候補生が入学するのが、この予備(役)士官学校だった。1年の教育で少尉に任官させ、同時に予備役に編入される。現役の少尉より格下で、消耗品だったのである。

軍は、この予備役将校を乙種編成部隊の下級幹部として活用した。それが、師団(旅団)⇒独立歩兵大隊となる。天皇から賜った軍旗(聯隊旗)がないのだ。独歩大隊は小銃中隊5、機関銃中隊1、大隊砲中隊1の、7個中隊で正規の大隊より大きく、聯隊より小さい組織である。これが支那派遣軍だった。二〇三、二〇四、二〇五、二〇六の独歩四大隊が百十七師団になる(2個大隊宛、八七、八八旅団)のだが、一般の兵隊検査を受け、初年兵として一般兵と同じく訓練と生活をともにしたのち、幹候試験に合格して、予備士官学校に進み、将校になってもとの部隊に帰ってくる。

正規の士官学校では、兵隊と一緒の生活をしていない。エリート将校なのである。関東軍や内地部隊の甲編成部隊では、階級章の星の数が、上下関係のすべてなのである。そういう環境にいた部隊は、捕虜になっても、そうである。だから、団結力とはいえないが、上下関係に縛られるのだった。

それに対し、野戦軍であった私たちの二〇三、二〇五の大隊は、対共産軍、対国府軍との戦闘で、死線を共にくぐってきたので、団結力があった。入ソ当時、この日本軍の建制のままだと、自主管理させるのには便利だったが、抑留が長引き、シベリアの気候風土に馴れてきた捕虜たちに、思想教育するのにはこの建制が邪魔になってきたことは、想像に難くない。

大体からして、満ソ国境の部隊を、米軍の本土上陸に備えて内地に戻し、その穴埋めに北支からやってきた我々は、在満部隊とは異質だった。だから、建制のまま炭坑労働に従事させて1年余り、まず将校と下士官兵とを分離し、将校だけの作業隊で石炭掘りをさせたのだった。そこらあたりが、軍隊に“しんにゅう”をつけて“運隊”と呼ぶように、私たちは労働成績優良ということで、将校梯団の第2陣として、早期に帰国復員できた。丸2年の捕虜生活だった。(つづく) 平成11年7月3日

旧軍の建制 「北支派遣・第十二軍・第百十七師団・第八十七旅団・独立歩兵第二百五大隊」 三田和夫の三田小隊は「島崎隊」に属していた
旧軍の建制 「北支派遣・第十二軍・第百十七師団・第八十七旅団・独立歩兵第二百五大隊」 三田和夫の三田小隊は「島崎隊」に属していた
旧軍の建制 「北支派遣・第十二軍・第百十七師団・第八十七旅団・独立歩兵第二百五大隊」 三田和夫の三田小隊は「島崎隊」に属していた
旧軍の建制 「北支派遣・第十二軍・第百十七師団・第八十七旅団・独立歩兵第二百五大隊」 三田和夫の三田小隊は「島崎隊」に属していた
旧軍の建制 「北支派遣・第十二軍・第百十七師団・第八十七旅団・独立歩兵第二百五大隊」 三田和夫の三田小隊は「島崎隊」に属していた
旧軍の建制 「北支派遣・第十二軍・第百十七師団・第八十七旅団・独立歩兵第二百五大隊」 三田和夫の三田小隊は「島崎隊」に属していた

編集長ひとり語り第51回 戦争とはなんだ?(3)

編集長ひとり語り第51回 戦争とはなんだ?(3) 平成12年(2000)9月9日 画像は三田和夫23歳(前列右から2人目タスキ掛け 島崎隊1945年)
編集長ひとり語り第51回 戦争とはなんだ?(3) 平成12年(2000)9月9日 画像は三田和夫23歳(前列右から2人目タスキ掛け 島崎隊1945年)
編集長ひとり語り第51回 戦争とはなんだ?(3) 平成12年(2000)9月9日 画像は三田和夫23歳(前列右から2人目タスキ掛け 島崎隊1945年)
編集長ひとり語り第51回 戦争とはなんだ?(3) 平成12年(2000)9月9日 画像は三田和夫23歳(前列右から2人目タスキ掛け 島崎隊1945年)

■□■戦争とはなんだ?(3)■□■第51回■□■ 平成12年9月9日

8月19日、敗戦から4日目。私たち在新京(長春)の日本軍部隊は、首都防衛司令部の命令による行軍序列で、南方の公主嶺に向けて沈黙の行進をつづけていた。日ソ両軍の交渉で、首都新京に日本軍がいると、不測の事態の可能性があるというので、南の公主嶺市に撤退することになったのだ。ここは軍都ともいうべき街で、兵舎など軍部の施設が数多くあったからだ。

重機関銃、大隊砲などの重装備は、武装解除されたが、軽機関銃、小銃などは、自衛のためまだ持っていた。満人の暴徒や満州国軍の叛乱などが、まだ続いていた。祖国日本の敗戦というショックに、自分たちのこれからの運命を思えば、葬列のような静けさにみちていた。

と、行程の半ばぐらいの時だったろうか。前方で激しい銃声が響いてきた。何が起きたのか、隊列はピタリと止まった。やがて、逓伝で「先頭部隊が外蒙兵に襲撃され、交戦中!」と、報告が入ってきた。私たちはそれをまた、後続の部隊へと叫んで伝える。

私たちは、第二〇五大隊。第一中隊から第五中隊までの小銃隊、それに、重機関銃、大隊砲の二個中隊、約一千四、五百名の兵力が並んでいた。銃声はいよいよ激しい。

「中隊長殿!」と、第五中隊第二小隊長の私は、前方の中隊指揮班に駆けつけた。「友軍が襲撃されているのです。救援に出かけましょう!」説明し損ねたが、黄河の鉄橋防衛の時には、私は重機関銃隊にいたのだが、原隊復帰の時、将校の数が足りない第五中隊に転属していた。

群馬県安中市出身で、中年の島崎正己中尉は、血気にはやる私をジロリと見るや、一喝した。「バカモン! 戦争は終わったのだ! これ以上、私の部下を死なすことはできん!」

ちょうどその時、後方から逓伝が聞こえてきた。「最後尾の戦車隊を前進させる。各隊その位置を動くな!」という。島崎中隊長は「みろ、戦車隊が出てから状況判断する!」と、不満そうに立っていた私を諭した…。やがて、キャタピラの轟音も力強く、十数輌の戦車が前進してきた。駄散兵(ダサンペイ・小銃隊の兵隊のこと)の私たちには、戦車隊の勇姿が、なんとも頼もしかったことを今でもハッキリと覚えている。

2、3時間もその位置にいただろうか。銃声も止み、前方から「前進!」の逓伝がきて再び公主嶺へと行軍を開始した。先頭の部隊は、戦車隊ともども、外蒙兵に拉致され、後には、戦死体と所持品の略奪の様子が残されていた。…これが、のちに戦後の国会でも問題になった、「ウランバートル、暁に祈る」事件の発端であった。まさに中隊長の言葉通りに、“戦争が終わったあとの犬死”だったというべきであろう。

島崎中隊長については、私が、一喝されて素直に従ったワケがもうひとつある。前々章で私が黄河から原隊復帰したとき、中隊長と第一小隊長が作戦に出ていて不在だった、と書いた。その先任少尉の石川新太郎小隊長の話である。米空軍基地のある老河口攻略のため、途中にある南陽市攻撃に参加したのだが、国民党軍が米式装備で守る南陽に行く前に、作戦部隊は、共産八路軍に行く手を阻まれた。

第二〇五大隊からは、島崎第五中隊長、石川第一小隊長のほか、他の中隊から一個小隊宛集めた一個中隊が出ていたのだった。尖兵として前に出ていた石川小隊は、有力な八路軍に包囲されそうになり、全滅の危機だったという。島崎中隊長はその様子を見て取って「石川小隊は退がれ!」と命令した。石川小隊の占めていた位置は、大隊命令で重要な地点だったのだが、島崎中隊長の命令で退却して、全滅をまぬがれた。

その日の夕方、島崎中隊長は多くの兵隊たちのいる前で、大隊長に口汚く罵られたが、黙ったまま直立不動の姿勢で立っていたそうだ。一言も弁解しなかったという。陸軍刑法には抗命罪という罪がある。上級指揮官の命令に背いた時、適用される。島崎中隊長の態度は、自分ひとり罪をかぶっても、石川小隊50余名の生命を救おう、というものだ。

島崎隊の戦友会が毎年1回、群馬県の温泉で催される。島崎、石川両氏とも故人となったが、「あの時、退却命令がなかったら、この会の顔触れは変わっていたろうよ」と、石川少尉は、いつも私に語っていた。

公主嶺の道中での、私への一喝といい、島崎中尉は“ひとのいのち”をなによりも尊ぶ人だった。シベリアの捕虜時代にも、採炭量がノルマに達しないと、責任罰で何回か営倉に入れられた。1日に黒パン一切れと水だけで…。それでも「石炭掘りに行くよりはラクだったよ」と、笑ってみせていた。

企業でも団体でも、上司次第である。それが「経営者責任」でなければならない。ツブれた銀行の役員たちが、過大な退職金を抱え込んであとは知らんぷりである。そごうの水島広雄もそうであるし、三菱自動車の社長など、「辞める気はない」と豪語し、翌日には三菱各社に迫られて「辞める」とは!

ビルマのインパール作戦では、軍司令官の中将は、反対する参謀長の首をスゲ替え、数万の兵を飢え死にさせた。作戦が中止になっても、割腹自殺もしない男だ。

カーター大統領にクビを切られた、在韓国連軍参謀長を取材しに行ったことがある。主戦派だったからだ。ロスからデンバーに飛び、車を仕立てて、ロッキー山脈の中の隠居所を訪ねた。その時の実感は、アメリカの広い国土と人口の多さだった。在米の陸軍駐在武官は、アメリカの実力について、軍中央にキチンと報告を入れていたのだろうか。駐米武官も軍中央も、陸士、陸大の出身者だ。

敗戦も、彼らの指導のもとでは当然の帰結であった。そして彼らは何百万人もの同胞を殺して、責任を取らなかったのだ。 平成12年9月9日