これに対し所長より、aソ連代表部員ならばお会いする必要はな
い b審査の過程であるので会わせる訳にはいかない c仮放免には一定の条件があり、ソ連等の国籍如何を問わず許可した前例がない d送還については中央の決定によるが、現地でも期待に添うよう努力する、と回答、約二時間会談の上午前十一時三十分頃引揚げ、途中果物等を差入れ、ホテルに帰った。
⒘同日午後六時五分札幌発列車で旭川に向い、午後八時五十分到着、ニュー北海ホテルに投宿した。尙、出発に当り、『抑留者三名には入管係員が面会させなかった。これら三名の抑留者は九月中旬頃強制送還されるらしい』との内容の電報を代表部宛打電したが、九月五日旭川に『帰京を延期するように』との内容(不明確)の返電があった模様である。
⒙九月五日午前十時旭川地裁を訪問、所長に面会を求めたが拒否され、そのまま引揚げた。
⒚九月八日午前零時五十五分旭川発下り列車で、自称、札幌市北九条西三丁目事務員本間裕枝(当 30 才)がニュー北海ホテル十六号室に宿泊し、午前八時四十五分頃ソ連元代表部員の部屋を訪問し、紙片を手交後、ロシヤ語にて約十五分位会話して引揚げた。尙同日午後一時四十五分旭川発列車で札幌へ向ったが、前記本間裕枝も同列車に乗革した。午後五時札幌駅に下車してからルーノフ氏等と自動車に乗車したが、途中で尾行を感付いて本間は下車し、北大教授杉之原舜一方を訪問した。
発生順に事件を追ってみると、次の通りになる。
五月二十五日 ソ連兵の死亡? 行方不明?
六月七日 ソ連兵の死体発見さる。
七月中旬 代表部死体捜索を始める。
七月二十日 コテリニコフ、ジュージャ両氏稚内に現る。
七月下旬 両氏帰国準備を始める。
八月二日 関三次郎密入国して、捕わる。
八月九日 ソ連船拿捕さる。
八 月十二日 コテリニコフ、ジュージャ両氏帰国す。
八月十九日 代表部四船員の釈放要求。
八月十九日 ヤンコフスキー氏札幌へ行く。
八月二十一日 ヤンコフスキー氏帰京。
八月二十二日 ルーノフ、サベリヨフ両氏旭川へ向う。
八月二十五日 両氏旭川へ現る。
以上の通りであるが、これでも分る通り、ソ連の一沿岸警備兵が死んだか、逃げたか、ともかく姿を消してから、代表部がその捜索を始めるまでに、約二ヶ月も経過しているのだ。云い直せば、二ヶ月も放置しておいたのちに、突然騷ぎ出したということだ。