すると、
私は秘密諜報部員としての訓練を一九四五年に終えた。そして日本語の語学将校として東京に赴任する準備を進めていた。
われわれはその年の夏に、ソ連の対日宣戦布告以後、モスクワに抑留されていた日本の外交官のなかから、スバイの手先に使う人間を物色しはじめた。その外交官のなかに、日本における自由主義的な政治思想を促進するという見地から、「新日本会」というのを組織した五人の大使館員がいた。
われわれはこの五人を一人づつ、他の者にはわからないように買収しにかかった。彼らに「西方の帝国主義」とくにアメリカの帝国主義を吹きこむことによって、われわれの側につけることは比較的容易な仕事だった。
本国政府は崩壊したと同様の状態にあり、彼らが果して将来職にありつけるか、どうかもわからない有様で、とくにその経済的な見通しは絶望状態におかれていたので、彼らに金のことをにおわせれば、比較的簡単にこちらの話にくっついてきた。おまけにその金もあまり大きな額でなくてすんだ。
文春の記事はここからあと、三節を削除して、「このように外国人を脅迫してソ連のスパイに動員する私の訓練は、東京への赴任によって中断されることになる」と、つづいている。
この三節の削除された部分というのが、冒頭に紹介した共同通信記者オグラ氏に対するソ連秘密機関の獲得工作の件りである。つまり終戦時にモスクワ駐在の特派員だったオグラ氏に対して、このような手段での獲得工作が行われていたのである。その結果〝志操の堅固〟だったオグラ氏も、ついに濃厚なロシヤ女の恋のとりこになったとは、まさに昨今流行のウシュカダラのようなお話である。
文春誌の記事はつづく。(同二〇二頁)
私はこの期間に、ソ連の諜報機関が用いる脅喝と強請の手口――外国人をソ連諜報部の手先にするために用いる手口の、いわば大学院的訓練をうけたのである。 (すなわち、私たちが以前に日本の新聞記者のオグラに対して用いたような外人獲得法について、より高度の教育をうけたのである) イデオロギーの立場から、そうした連中をわれわれの仲間に引きずりこむことのできたのは滅多になかった。だから、性、酒、賭博、麻薬、その他あらゆる人間の弱点につけこむ手口が用いられるのであり、これはまったく一つの科学にさえなっていた。 (そして、前記のオグラに関する事件は、その好適例である)
このカッコ内が、前をうけて削除された部分である。
三 謎に微笑むノー・コメント 終戦後からのソ連の対日工作を眺めてみると、そこには全くつねに一貫した政策の流れていることが分る。これは、ここでは詳述する限りではないが、現在のソヴエト体制が崩壊しない限りは、たとえ時の権力者が誰であろうと、全くいささかもの影響も受けないことだ。この政策の一貫性というものは、その諜報謀略工作に一番よく現れ ている。