そのひとつに、昭和二十六年秋の「逆コース」というのがあった。
この年の九月八日、サンフランシスコで、対日平和条約の調印が、日本を含む四十九カ国で行なわれた。ソ連、チェコ、ポーランド三国は、調印を拒否した。発効は、翌二十七年四月二十八日。
岩波の「近代日本総合年表」によると、この講和の影響なのか、流行語として、「逆コース、BG、社用族」の三つがあげられている。その「逆コース」という題の、続きものである。辻本の、本能的なニュース・センスが、そうさせたのであろう。
その、第二十一回に、私は、「職業軍人」というテーマで、参加している。
当時の私の記事にあるように、やはり、旧軍の参謀たちが、政治家のブレーンになって日本の政治に、大きな役割を果たしていたのである。現実に、中曽根のブレーンには瀬島竜三・中佐参謀が、いまも、生き残っているではないか。
瀬島が、シベリア帰りであるように、私は、幻兵団の取材を通して、多くの旧軍参謀たちに面識があり、交際もあって、事情に通じていたのだった。
辻本次長は、「逆コース」の成功に気を良くして、二十七年二月、講和条約の発効を控えて、日本の再軍備問題を批判する続きもの「生きかえる参謀本部」を、スタートさせたのである。私も、もちろん、辻本チームの一員である。そのためには、辻政信大佐に会わねばならない。
早春のある朝、荻窪の仮寓へ行ってみると、入口には「警察官と新聞記者、入るべからず」と、墨書した木札が出ている。辻政信に会うのは、おお事だ、とは聞いていたが、これが、それを意味して
いるのだ、と悟った。
だが、この木札一枚で、そのまま引っ返すほどなら、新聞記者はつとまらない。私は、門をあけ、玄関に立った。日本風の玄関は明け放たれて、キレイに掃除してある。二月の早朝だというのに、である。
「ごめん下さい」
「どなた?」
玄関のすぐ次の間から、本人らしい声。
「読売の社会部の者ですが…」
「ワシは新聞記者はキライだ。会いたくないから、チャンと門に書いておいたはずだ」
声はすれども、姿は見えずだ。辻参謀はチャンとそこにいるのだが、一向に現われない。
「しかし、御意見を伺いたいのです。ことに日本独立後の再軍備問題なので、是非とも、お目にかかって、親しく、御意見を伺わねばなりません。再軍備問題は、するにせよ、しないにせよ、新聞としては当然、真剣に、読者とともに考えるべきものです」
「よろしい、趣旨は判った。しかしワシは新聞記者がキライで、会わないと決心をしたのだから、会うワケにはいかん」
「いや、会って下さい。私も一人前の記者ですから、それだけの理由で、敵陣に乗りこみながら、みすみす帰るワケに行きません。それでは、出てこられるまで、ここで待っています」