読売梁山泊の記者たち p.086-087 〝強い者に強い教育〟をする

読売梁山泊の記者たち p.086-087 原の〝教育〟は、簡潔に、パッと目的だけを命令する。その取材命令を、パッと理解できない記者には、さげすみの眼を注いで、もう、振り向いてはくれない。
読売梁山泊の記者たち p.086-087 原の〝教育〟は、簡潔に、パッと目的だけを命令する。その取材命令を、パッと理解できない記者には、さげすみの眼を注いで、もう、振り向いてはくれない。

私の感想では、当時の二大アジテーターが、日共の川上貫一代議士(注=岩波年表によれば、26・

1・27、共産党衆院代表質問で、吉田首相に対し、全面講和と再軍備反対を主張して、懲罰委へ。3・26、除名を決定、とある)と辻参謀だ、と思う。川上流は、持ちあげて湧かせて、狂喜乱舞させてしまうアジテーション。私は、彼の演説を聞くたびに、記者であることを忘れて、夢中になって拍手してしまうほどだった。

辻流は、相手を、グッと手前に引きよせて静かに、自分のペースにまきこんでしまう、対照的な型である。はじめて会った辻参謀は、約一時間以上もそれこそ、じゅんじゅんと語った。

「マ元師はもはや老朽船だ。長い間、日本にけい留されている間に、船腹には、もうカキがいっぱいついてしまって、走り出そうにも走れない。このカキのような日本人が、たくさんへばりついているのだ…」

参謀は、そういいながら、彼の書きかけの原稿をみせてくれた。読んでみると、反米的な内容だが、実におもしろく、私たちの漠然と感じていることを、実に明快に、しかも、ハッキリといい切っている。

私は、その原稿を借りて帰った。原部長に見せると、「実におもしろい」と、感心している。後に聞いたところでは、原は、まだ占領期間中であるのに、その原稿を読売の紙面に発表して、問題を投げかけ、読者に活発な論争をさせようと、企画したらしい。

「あのような、激しい、占領政策批判の記事を?」と、私は内心、部長の企画に、眼を丸くして驚いた。しかし、この原稿は、社の幹部に反対されたらしく、部長もついに諦めたらしかった。

そんな「原四郎の時代」が、順調にすべり出してゆくのには、決して、平坦な道のりでなかったことは、古いタイプの社会部記者、遠藤美佐雄の、「大人になれない事件記者」という、絶版(正確には断裁)になった単行本が、詳しく述べている。思いこみの激しい人だっただけに、真偽半々の内容ではある。

原の〝教育〟は、簡潔に、パッと目的だけを命令する。その取材命令を、パッと理解できない記者には、さげすみの眼を注いで、もう、振り向いてはくれない。

くどくどと、取材の意図や狙いなど、記者に説明はしない。従って、弁解も、取材ができなかった理由など、聞く耳はもたない。

新聞記者は、「結果」だけなのである。その「結果」は、紙面の記事で、報告は不要なのである。つまり、〝強い者に強い教育〟をするのである。優勝劣敗。敗者には、口も利かなければ、声もかけない。

だから、「ハラチンは冷たい男だ」という、評価も出てくる。だが、朝夕刊の紙面を読んで、記事審査委員会に出ると、部下の記事は、十分に弁護してくる。

部長の意に満たない記事で、記者に小言は垂れない。デスクを叱るだけだ。と同時に、その記者は、もう、見捨ててしまう。伸びる力のある記者だけを登用する。

私生活や、勤務時間や、出勤時間や、提稿量。さらには、取材費の使いっぷりや、自動車の使用状況など、いうなれば、紙面での結果以外のことには、管理者らしい発言は、一切しなかった。いい仕事をして、いい紙面を作れれば、そんなことは、まったく、枝葉末節、という「部長」であった。