若い私は、ハヤりすぎて、部長にたしなめられてしまった。それからまた、雲をつかむような調査が、本来の仕事の合間に続けられていった。
その結果、現に内地に帰ってきている、シベリア引揚者の中に、誰にも打ち明けられないスパイとしての、暗い運命を背負わされたと信じこんで、この日本の国土の上で、生命の危険までを懸念しながら、独りはんもんしている者がいるという、奇怪な事実までが明らかになった。
そして、そういう悩みを持つ、数人の人たちをやっと探しあてることができたのだが、彼らの中には、その内容をもらすことが、直接死につらなると信じこみ、真向から否定した人もあるが、名を秘して、自分の暗い運命を語った人もあった。
さらに、進んで名乗りをあげれば、同じような運命に、はんもんしている他の人たちの勇気をふるい起こさせるだろう、というので、一切を堂々と明らかにした人もいた。
私の場合、テストさえも済まなかったので、偽名や合言葉も与えられなかったが、他の多くの人は、東京での最初のレポのための、合言葉を授けられていた。
例えば、例の三橋事件の三橋正雄は、不忍池のそばで、「この池には魚がいますか」と問われて、「戦時中はいましたが、今はいません」と答えるのが、合言葉であった。
ラストボロフ事件の志位正二元少佐の場合は、通訳が日本語に学のあるところを、示そうとしてか、万葉の古歌「憶良らは いまはまからむ子泣くらむ、そのかの母も吾をまつらむぞ」という、むずかしい合言葉だった。
そして、自宅から駅へ向かう途中の道で、ジープを修理していた男に、「ギブ・ミー・ファイヤァ」と、タバコの火を借りられた。その時、その白人は、素早く一枚の紙片を、彼のポケットにおしこんだ。
彼が、あとでひろげてみると、金釘流の日本文で、「あなたが帰ってから三年です。子供たちもワンワン泣いています。こんどの水曜日の二十一時、テイコク劇場ウラでお待ちしています。もしだめなら、次の水曜日、同じ時間、場所で」とあった。子供がワンワン泣いている、というのが、さきの万葉だったのである。
また、「あなたはいつ企業をやるつもりですか」「私は金がある時に」とか、「私はクレムペラーを、持ってくることができませんでした」と、話しかける人が、何国人であっても連絡者だ、と教えられたのもある。
データは完全に揃った。談話も集まった。私たちは相談して、南整理部長の叫びの通り、このスパイ群に「幻兵団」という、呼び名をつけたのであった。そして、二十五年一月十一日、社会面の全面を埋めて第一回分、「シベリアで魂を売った幻兵団」を発表した。それから二月十四日まで、八回にわたって、このソ連製スパイの事実を、あらゆる角度から暴いていった。
反響は大きかった。読者をはじめ、警視庁、国警、特審局(現公安調査庁)などの治安当局でさえも、半信半疑であった。CIC(米占領軍情報部)が確実なデータを握っている時、日本側の治安当
局は、まったくツンボさじきにおかれて、日本側では、舞鶴引揚援護局の一部の人しか知らなかった。