その男はSといい、ソ連代表部雇員という肩書の男だった。肩書は〝市民雇員〟であったが、もち
ろんれっきとした軍人である。ちょうど、シベリアで、日本新聞の指導をしていたコワレンコ中佐が、タス通信記者という肩書で、代表部にいたように、各収容所付の将校たちが、入れかわり立ちかわり、背広姿で日本にやってきて、重要な〝幻兵団〟に、合言葉をささやくのであった。
I元少将が命ぜられた任務は、在日米軍のバクテリア研究所の実体調査である。当時、日本の細菌研究は、世界的に優れており、その指導者である石井中将を、満州において取り逃がしたことは、ソ連にとって痛恨事であった。その石井中将直接の指導の下に、在日米軍が、ソ連ウクライナの穀倉地帯の、食物に対する細菌戦を準備しているから、その情況を調査せよ、というのが、I元少将の任務であった。
こうしたレポのために、ソ連代表部の〝市民雇員〟は、夜な夜な、東京都内を徘徊するのであった。
ちなみに、夜の七時から九時までの間、三十分おきに、ソ連代表部から出る自動車の行先をみてみよう。歌舞伎座、日比谷公会堂、アーニーパイル劇場(東宝劇場)、帝国劇場、明治座、日劇、そんな賑やかな所を、グルグル廻ってから、目的地へ辿りつくのだ。
昼間なら、赤坂の虎屋、靖国神社、地下鉄赤坂見付駅、日本橋の高島屋、渋谷郵便局、上野公園、皇居前の楠公像、大宮公園、井の頭公園などに行く。
レポには、決して特定の店は使わない。必ず直接である。報酬は月額三—五万円のクラスと、六—十万円のクラスとがある。
こうして、ソ連で書いた一枚の誓約書におののきながら、祖国と、わが魂を、外国に売り渡した日
本人が、甘受する運命は何であろうか。
佐々木克己・元大佐という軍人が、遺書もなく自殺を遂げ、鹿地亘という作家もまた、なにやら、〝人さらい〟にさらわれる——実に、米軍の占領下では、いまの、平和な日本に生まれ、育った人たちには、とうてい、理解を絶するようなことが、相次いで起こっていたのである。
太平洋戦争後の、米ソの冷戦。これもまたいまのゴルバチョフ・ペレストロイカのもとでは、さながら、フィクションそのもの、といえるだろう。
こんなこともあった。私たちは、シベリア捕虜として、炭坑などの重労働を強いられたが、そこで見た、ボーリング機械も、パワー・ショベル・カーも、ほとんどの機械は、米国製であり、食糧援助の粉末鶏卵など、戦争中のソ連の窮状ぶりが良く分かった。それこそ、丸抱えのように、米国製品が、ソ連に満ちあふれていた。そして、米国製機械のイミテーションのソ連製はすぐ故障して、使えなかった。
満ソ国境で、戦闘してきたソ連軍は、さすがに、大都市には入れなかった。ソ軍の幹部も、その殺気立った部隊を都市に入れたら、どんな混乱を生ずるか、良く分かっていたのだろう。
降伏した日本軍は、武装解除されたが、将校だけは、勲章をつけ、軍刀を帯びていることが許された。兵舎内に起居し、塀の外に、ソ軍の歩哨が立つ生活が、一カ月もつづいただろうか。
映画「ラスト・エンペラー」を、殊のほか興味深く見たのも、一つの国家が、ガラガラと音をたて
て、崩れてゆく瞬間を、目撃したからだった。大日本帝国のカイライ・満州帝国、建国十年の崩壊である。