第四章 シカゴ、マニラ、上海のギャングたち
不良外人が闊歩する「東京租界」
日本の、朝鮮半島や台湾の併合は、それこそ、武力を背景にした強引なものだった。そうした植民地化は、当然の結果として、民族差別を生む。
だから、いまの中年以上の日本人、少なくとも、敗戦までに小学校教育を受けていた人たちには、抜き難いほどの、朝鮮民族や中国人に対しての蔑視感が残っている。
それは、戦時中の教育だけではなく、日本の敗戦によって独立を得た、朝鮮、台湾民族らの、それこそ〝一斉蜂起〟ともいうべき、強圧からの解放感の、然らしめるところもあった。
東京でも、新橋や新宿では、〝暴動〟に近い騒ぎが頻発していた。当時「第三国人」と呼ばれた彼らは、三無原則(無統制、無税金、無取締)によって、経済的優位を確保して、日本中を闊歩していた。
「第三国人」はさらに、「占領国人」や「占領軍」とも組んで、まさに無法状態の中で資産を形成していった。
当時の財テクは、彼らと組むのが一番の近道であった。例えば、国際興業・小佐野賢治は、経済違反で警視庁に逮捕され、送検された時、係の検事が、独学で中年過ぎに司法試験に合格した男と、知った。
検事では、絶対に出世しない立場である。小佐野は、彼を口説いて、「処分保留」の形で釈放させた。占領軍の古タイヤの払下げ入札の期日が、迫っていたのである。そして、検事を退官して弁護士にな
ったその男は同社の顧問弁護士に就任する。国際興業の今日の基礎は、この時の古タイヤだった。
さらに、箔付けのために、小佐野は、旧華族の娘と結婚する。名も門地もなく、金だけの男が選ぶ道である。
同じように、占領軍の将校たち——金力の代わりに権力を持った男たちも、旧華族の女性たちに憧れた。だが、権力だけでは女は養えない。金の必要を感じた連中が、第三国人や、被占領国の日本人と組んで、〝悪事〟を働く。
それが、七年間もつづいた。
その結果、日本は、バクチや麻薬、ヤミ、密輸、売春といった、植民地犯罪の巣となり果てていた。昭和二十七年四月二十八日、日本は独立国となり、占領は終わった。だが、第三国人や占領国人の「経済特権」には、さらに六カ月間の猶予期間が与えられ、半占領の状態が続いた。
「畜生メ、これじゃ、まるで租界だ!」
原四郎は、デスク会議で呟いた。
「租界」という言葉を、「新潮国語辞典」でひいてみると、こうある。
《居留地。特に中国で、第二次大戦前、条約により、外国人が土地を借り、永久的居住をなし得た地域。現在は消滅》
香港でさえ、一九九七年には中国に返還される。「租界」とは、すでに死語なのである。
日本が、はじめて経験した〝植民地〟状況が、原四郎をして、こういわしめたのだ。初代マニラ支
局長、東亜部次長という経歴の彼には、米軍占領下の東京は、どう見ても〝トーキョー租界〟であった。