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正力松太郎の死の後にくるもの p.048-049 商売気のない〝孤高の新聞記者〟

正力松太郎の死の後にくるもの p.048-049 「事件の読売」の社会部長として、足かけ七年もその職にあって、〝名社会部長〟の名をほしいままにしたのだから、その人となり、おおよその察しがつこう。〝孤高の編集局長〟と呼ばれる理由でもある。
正力松太郎の死の後にくるもの p.048-049 「事件の読売」の社会部長として、足かけ七年もその職にあって、〝名社会部長〟の名をほしいままにしたのだから、その人となり、おおよその察しがつこう。〝孤高の編集局長〟と呼ばれる理由でもある。

古き良き時代の、ある新聞記者像として、この二人のエピソードを紹介した。読者のみならず、大新聞記者の多くの人たちには、もはや理解できなくなってしまった、この〝社を辞める〟

という感覚を、取りあげてみたかったのである。

ある古手の記者が、原の統率する読売編集局を評して、「一犬虚に吠えて、万犬実を伝う」といった。だが、私はこの言葉を裏返して、〝一犬実に吠えて、万犬虚を伝う〟と訂正しなければならぬと思う。原の〝自信にみちた〟怒号を、バチッと自分で受止めて、万犬が〝虚〟を伝えるのを防ぐだけの、幹部級の新聞記者がいなくなったのが、編集の現状だと思う。——誰もが、現在の自分の地位と収入と、退職金とが惜しくなってしまったのである。

「畜生! 辞めてやる!」と口走るのが、事実、読売の伝統であったようである。名文家として知られた高木健夫(役員待遇)が、昭和三十年に書いている「読売新聞風雲録(原四郎編)」中の、「社長と社員」の文章に、正力陣頭指揮時代の読売の社風が、そのようにうかがわれるのである。

編集局長原四郎。常務取締役でもあって、読売の紙面制作の実力者である。国民新聞(注。徳富蘇峰の主宰した戦前の一流紙。現在も旬刊紙として、その題号だけは、細々と伝えられている)から、読売に移って、戦時中は東亜部次長、副参事。ビルマ支局長も経ている。明治四十一年二月十五日生れ。戦後は、文化部長から社会部長、整理部長、編集総務となり、取締役出版局長に出たのち、編集局長へともどってきた全くの記者。

編集局にいるかぎり、販売店のオヤジさんたちとは付合わないで済むが、出版局長ともなれば

そうはゆかない。販売店主やら広告代理店やら、ソロバン片手の交際ももたねばならない。ところが、原はそのような会合に出たがらず、部下まかせにするので、出版局育ちの部長連中が泣いたという伝説があるほどで、商売気のない〝孤高の新聞記者〟でもある。

古き良き時代に、新聞記者として育ち、幹部記者として戦争を見、戦後の反動で文化活動の盛んな時に文化部長を勤め、読売の伸張期である昭和二十年代に「事件の読売」の社会部長として、昭和二十四年から同三十年まで、足かけ七年もその職にあって、〝名社会部長〟の名をほしいままにしたのだから、その人となり、おおよその察しがつこう。〝孤高の編集局長〟と呼ばれる理由でもある。

高木は昭和二年に国民新聞に入ったのだが、しばらくして名文を買われて読売にトレードされたように、原もまた、美文をもって、国民から昭和十一年、高木に誘われて読売に移った。〝伝説〟ではあるが、原の暢達華麗な美文は、〝原文学〟とまで称されていた。

その原が、七年の長きにわたって社会部長であった時、十三年七カ月にわたって編集局長であったのが、小島文夫(故人)である。小島編集局長時代に、これらの「畜生! 辞めてやる!」という読売の伝統は、次第に薄れていったようである。

「正力社長の早朝出社は有名で、一般社員より一時間早く出て社内を一巡する。この時、だだ広 い編集局にただ一人、クズ鉛筆などを拾っている男がいる。