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読売梁山泊の記者たち p.112-113 警視庁の課長たちにもサムライが

読売梁山泊の記者たち p.112-113 警視庁クラブは、マージャン卓が常設されており、現金を賭けたトバクが毎日行なわれていた。田中栄一警視総監が、夜の上野公園を視察に行って、オカマにブン殴られたりする時代であった。
読売梁山泊の記者たち p.112-113 警視庁クラブは、マージャン卓が常設されており、現金を賭けたトバクが毎日行なわれていた。田中栄一警視総監が、夜の上野公園を視察に行って、オカマにブン殴られたりする時代であった。

私の手許にある、読売の社員名簿によれば、四十九年の社会部員は百十三名、五十年には百十名である。そして、総務局長、人事部長、労務部長、文書課長と総務の中枢が社会部出身。編集局では、

総務、局次長、参与、顧問の十六名中の六名。整理第二部長、社会、科学、婦人、地方庶務の六部長も、社会部出身者であった。異色は、渡辺恒雄・政治部長の下に六次長、四主任が並び、その次に、部長待遇として、社会部記者が位置しているのだ。経済部や外報部などの一等部には、そのような例はない。そしてまた、発送部長。

読売新聞の部課長は、百名を越すであろうが、「部長会に石を投げると、社会部記者に当たる」と、いわれるほどであった。

こうして、社員名簿を眺めてみると、「社会部帝国主義」という、原四郎の〝猛威〟はうなずけるのである。政治部に置いた、部長待遇の社会部記者は、渡辺部長を監視する、〈探題〉であったのだろう。

原が監査役に退くや、ガタガタと「社会部帝国主義」が崩れ去り、社会部員は自嘲し、紙面は低迷していると……。そしていま、〝自動車使用で社会部大目玉、政治部お構いなし〟の戯れ言のように、渡辺社長の〝ナベツネ旋風〟が、読売に吹き荒れている、とか。

「社会部帝国主義」の時代こそ知らないが、それでも私は「社会部の読売」時代を満喫している。

私は、昭和二十七年から、同三十年春までの三年間、警視庁記者クラブ詰めであった。もちろん、原社会部長時代である。昭和三十年六月の社員名簿を見ると、それまで、局次長兼務の社会部長だった原が、局次長の上の編集総務になり、社会部長は、原のサツ廻り仲間だった、景山与志雄になって

いる。

当時の警視庁クラブは、一隅にマージャン卓が常設されており、現金を賭けたトバクが毎日、行なわれていた。なにしろ、田中栄一警視総監が、夜の上野公園を視察に行って、オカマにブン殴られたりする時代であった。警視庁の課長たちにも、仲々のサムライが多かった。

三十年一月四日夜。クラブで公安担当の私と、深江靖とで、目黒・衾町の課長公舎に、渡部正郎・公安第三課長(外事)の公舎を訪ねて行った。ほぼ、同年代だから、呑むほどに、酔うほどに、二人とも、ゴキゲンになっていったのである。

美人の誉れ高い、渡部夫人と四人で飲んでいるうちに、「オイ、ほかの課長の家にも、ストームをかけよう」と、いうことになったものだ。夜の十時か十一時ごろ、渡部と同期(昭20採用)の、木村善隆・交通課長と、中田茂春・防犯課長とが、私と深江に叩き起こされて、渡部家へと〝拉致〟されたものである。

書き初めをしていたお嬢さんを見て、「オレたちも書き初めだ」と、やり出し、半紙が無くなると、「奥さん、紙がないゾ」と、わめく。すると、渡部正郎はなんといったか! 「紙ならそこにある!」

指さす方を見てやると、ナナント、公舎の襖である。酔った勢いだから、得たりや応とばかりに、襖という襖に、下手クソな字を書きまくり、果ては、白壁にまで、深江は奥さんの似顔絵を、描きまくってしまった。

もちろん、私と、深江だけが〝共犯〟ではない。渡部も、客の二課長も、〝共同正犯〟である。そし

て、一緒になって、大笑いしている夫人——これだけ、デキた女房は、そうザラにはいまい。