「社会部の読売」時代の武勇伝」タグアーカイブ

読売梁山泊の記者たち p.008-009 目次

読売梁山泊の記者たち p.008-009 目次01
読売梁山泊の記者たち p.008-009 目次01

序に代えて 務臺没後の読売

九頭竜ダム疑惑に関わった氏家、渡辺
大下英治の描く、ナベ恒の謀略
覇道を突き進む読売・渡辺社長 

第一章 エンピツやくざを統率する竹内四郎

戦地から復員、記者として再出発
「梁山泊」さながらの竹内社会部
記者・カメラ・自動車の個性豊かな面々
帝銀事件、半陰陽、そして白亜の恋
争議に関連して読売を去った徳間康快 

第二章 新・社会部記者像を描く原四郎

いい仕事、いい紙面だけが勝負
カラ出張とねやの中の新聞社論
遠藤美佐雄と日テレ創設秘話
「社会部の読売」時代の武勇伝
あまりにも人情家だった景山部長 

第三章 米ソ冷戦の谷間で〈幻兵団〉の恐怖

シベリア引揚者の中にソ連のスパイ
スパイ誓約書に署名させられた実体験
幻兵団を実証する事件がつぎつぎと
米ソのスパイ合戦「鹿地・三橋事件」
近代諜報戦が変えたスパイの概念

第四章 シカゴ、マニラ、上海のギャングたち

不良外人が闊歩する「東京租界」
国際ギャングによる日本のナワ張り争い
戦後史の闇に生きつづけた上海の王
警視庁タイアップの華麗なスクープ

第五章 異説・不当逮捕、立松事件のウラ側

大誤報で地に堕ちた悲劇のスター記者
三十年後に明かされた事件の真相

読売梁山泊の記者たち p.108-109 親分・子分の関係

読売梁山泊の記者たち p.108-109 派閥の親分・子分というのは、非能力、不努力の輩が、おのれの生存を護る手段から、自然発生するものだろう。エンピツ一本だけで、生きてきた私は、読売での十五年間に、〝親分〟を持った経験はない。
読売梁山泊の記者たち p.108-109 派閥の親分・子分というのは、非能力、不努力の輩が、おのれの生存を護る手段から、自然発生するものだろう。エンピツ一本だけで、生きてきた私は、読売での十五年間に、〝親分〟を持った経験はない。

そして、私は「正論新聞」を創刊し、その目玉として、田中角・小佐野——河井検事・児玉誉士夫キャンペーンを張った。昭和四十二年当時のことであった。

脳いっ血かなにかで倒れて、言葉も不自由になった遠藤が、ある朝、当時住んでいた戸田の公団住

宅の私のもとに現われた。

「コ、ダ、マ、さんが怒っている。正論新聞の記事を止めろ」と、たどたどしくいった。その変わり果てた姿に、私は暗然とした。そして、不自由な手で、カメラを取り出した。自分が、三田をオドかしてきた、という証拠がほしいのだろう。私は、承知して、撮影させてやった。…それからしばらくして、彼が死んだという話を、風の便りに知った…。

もちろん、遠藤の〝オドシ〟で、私は、キャンペーンを止めたわけではないが、その話は、別の機会に譲ろう。

「社会部の読売」時代の武勇伝

最近、読売新聞の記者たちは、こんな〝笑い話〟に興じている、という。

「社会部記者が、新宿で、車を二時間待たせたら、大目玉! 政治部記者が、赤坂で、四時間待たせても、オ構いなし!」

これは、政治部出身の渡辺恒雄社長への〝戯れ言〟である。

原四郎・社会部長が七年間に及ぶ〈名・社会部長〉のあと、副社長・主幹と、位、人臣を極めていた当時の、「社会部帝国主義」に比べると、ナベツネの〝実力〟は、はるかにスケールが小さい。自分が育てた、子飼いの記者たちを、社内の要所々々の、要職に登用していくことが、「社会部帝国主義」と呼ばれたのである。

そしてまた、原四郎に育てられたその社会部記者たちは、要職に就けるだけの、能力を具備していたのである。それは同時に、能力のない者、努力しない者に対する、冷酷なほどの〝切り捨て〟でもあった。それが、「原チンは冷たい」という声になる。

それでは、原社会部長の時代に、新聞記者として大きく成長した私が、原四郎に、いわゆる〝可愛がられ〟たか、というと、決して、そんなことはない。深見和夫・報知社長の逝去の記事で、私は、深見さんに〝可愛がられた〟と書いている。これは、先輩が後輩に目をかけることを意味する。ある場合には、先輩・後輩の関係から、親分・子分の関係に転化してゆくことになる。

社会部員以外の記者をして、〝社会部帝国主義〟と戯れ言をいわしめるのは、もはや、親分・子分の関係に近いのだろう。だが、私が読売を退社したのは、昭和三十三年。原四郎は、ヒラ取締役の出版局長であったので、この〝社会部帝国主義〟の、実態についてはまったく、知識も体験もない。

私の読売時代、毎日新聞では、親分・子分の派閥がスゴくて、部長が異動すると、部員の半分が異動した、という〝伝説〟があったものだった。ところが、読売には、まったくといっていいほど、派閥がなかった。しいていえば、正力派と非正力派であろうか。これは〝非〟であって、〝反〟ではなかった。

だから、社会部長としての原四郎は、能力と努力は認めても、そして、そのどちらにもエンのない者は、黙殺されて、いつしか、社会部から消え去ってゆくのだった。

しかし、派閥の親分・子分というのは、非能力、不努力の輩が、おのれの生存を護る手段から、自

然発生するものだろう。エンピツ一本だけで、生きてきた私は、読売での十五年間に、〝親分〟を持った経験はない。

読売梁山泊の記者たち p.110-111 「オレが中曽根を総理にした」と豪語した

読売梁山泊の記者たち p.110-111 渡辺のほうは、順風満帆、読売の社長である。「あンたは、政治家になるの?」と、直接たずねたことがある。「イイエ、いまから転身しても、陣笠ですから、私は、最後まで読売記者です」と。
読売梁山泊の記者たち p.110-111 渡辺のほうは、順風満帆、読売の社長である。「あンたは、政治家になるの?」と、直接たずねたことがある。「イイエ、いまから転身しても、陣笠ですから、私は、最後まで読売記者です」と。

しかし、派閥の親分・子分というのは、非能力、不努力の輩が、おのれの生存を護る手段から、自

然発生するものだろう。エンピツ一本だけで、生きてきた私は、読売での十五年間に、〝親分〟を持った経験はない。

テレビ朝日の三浦甲子二(故人)は、朝日新聞政治部記者であり、中曽根康弘が総理になった時、いみじくも、読売政治部記者の渡辺恒雄とともに、「オレが中曽根を総理にした」と、異口同音に豪語したものであった。

三浦の晩年はテレ朝から北海道へ追われ、投資ジャーナル・スキャンダルにまみれて、中曽根に「参院候補者の上位ランク」を要求したが、「もう借りは返している」と、拒まれた。その中曽根との交渉も、赤坂の料亭・茄子で長時間待たされた揚句のタッタの五分間。

痛憤・痛飲の果て、その翌暁、腹上死したと伝えられているが、私が逢った限りでは、三浦は痛快男児であった。

三浦が政治部次長の時、部長の異動があった。たまたま、新任部長と同車して帰宅の時に、彼は、部長を自宅に誘った。三浦家で、二人が酒を呑み、盛り上がってきたころあいを見て、隣室のフスマがサッと開くと、子分の記者十数名が、そこに並んでいて、部長はアッと声をのんだ、といわれている。

この〝伝説〟の真偽を、三浦本人に質したことがあった。彼は、ニコヤカに笑いながら「朝日には、そんな〝伝説〟を創り出すフンイキがありまして、ネ」と、否定した。

三浦の〝末路〟に比して、渡辺のほうは、順風満帆、読売の社長である。渡辺は、朝日の渡辺誠毅

と同じく、東大出のマルクス・ボーイ。東大新人会の出身で、読売には、出版局嘱託として、不正規入社したが、三浦よりは、頭脳と処世術に長じていたのだろう。「あンたは、政治家になるの?」と、直接たずねたことがある。「イイエ、いまから転身しても、陣笠ですから、私は、最後まで読売記者です」と、答える彼を、私は見直した。

大野伴睦、河野一郎、中曽根康弘など、政界人の〝親分〟は、取材対象だ、ということなのだろう。ロッキードの児玉誉士夫をも含めて…。しかし、政治部のなかで、〝子分〟を養っていたことは、確かであった。

原の「社会部帝国主義」について説明しよう。

私が辞めた昭和三十三年夏のころで、部員八十六名。その六年後は、百十名、現在でも九十九名と、社会部は、編集局内で、地方部(総支局を含める)に次ぐ大所帯。まさに、一等部である。

原四郎は平成元年二月十五日に亡くなったが、八十一歳——ということは、第一回・菊池寛賞に輝く「東京租界」の時は四十四歳であった。四十年・常務編集局長、四十五年・専務編集主幹、四十六年・取締役副社長、四十九年・代表取締役副社長。五十六年に、監査役に退くまで、実に七年間も代取副社長として、務臺社長の次に、その名が並んでいた。

私の手許にある、読売の社員名簿によれば、四十九年の社会部員は百十三名、五十年には百十名である。そして、総務局長、人事部長、労務部長、文書課長と総務の中枢が社会部出身。編集局では、

総務、局次長、参与、顧問の十六名中の六名。整理第二部長、社会、科学、婦人、地方庶務の六部長も、社会部出身者であった。異色は、渡辺恒雄・政治部長の下に六次長、四主任が並び、その次に、部長待遇として、社会部記者が位置しているのだ。経済部や外報部などの一等部には、そのような例はない。そしてまた、発送部長。

読売梁山泊の記者たち p.112-113 警視庁の課長たちにもサムライが

読売梁山泊の記者たち p.112-113 警視庁クラブは、マージャン卓が常設されており、現金を賭けたトバクが毎日行なわれていた。田中栄一警視総監が、夜の上野公園を視察に行って、オカマにブン殴られたりする時代であった。
読売梁山泊の記者たち p.112-113 警視庁クラブは、マージャン卓が常設されており、現金を賭けたトバクが毎日行なわれていた。田中栄一警視総監が、夜の上野公園を視察に行って、オカマにブン殴られたりする時代であった。

私の手許にある、読売の社員名簿によれば、四十九年の社会部員は百十三名、五十年には百十名である。そして、総務局長、人事部長、労務部長、文書課長と総務の中枢が社会部出身。編集局では、

総務、局次長、参与、顧問の十六名中の六名。整理第二部長、社会、科学、婦人、地方庶務の六部長も、社会部出身者であった。異色は、渡辺恒雄・政治部長の下に六次長、四主任が並び、その次に、部長待遇として、社会部記者が位置しているのだ。経済部や外報部などの一等部には、そのような例はない。そしてまた、発送部長。

読売新聞の部課長は、百名を越すであろうが、「部長会に石を投げると、社会部記者に当たる」と、いわれるほどであった。

こうして、社員名簿を眺めてみると、「社会部帝国主義」という、原四郎の〝猛威〟はうなずけるのである。政治部に置いた、部長待遇の社会部記者は、渡辺部長を監視する、〈探題〉であったのだろう。

原が監査役に退くや、ガタガタと「社会部帝国主義」が崩れ去り、社会部員は自嘲し、紙面は低迷していると……。そしていま、〝自動車使用で社会部大目玉、政治部お構いなし〟の戯れ言のように、渡辺社長の〝ナベツネ旋風〟が、読売に吹き荒れている、とか。

「社会部帝国主義」の時代こそ知らないが、それでも私は「社会部の読売」時代を満喫している。

私は、昭和二十七年から、同三十年春までの三年間、警視庁記者クラブ詰めであった。もちろん、原社会部長時代である。昭和三十年六月の社員名簿を見ると、それまで、局次長兼務の社会部長だった原が、局次長の上の編集総務になり、社会部長は、原のサツ廻り仲間だった、景山与志雄になって

いる。

当時の警視庁クラブは、一隅にマージャン卓が常設されており、現金を賭けたトバクが毎日、行なわれていた。なにしろ、田中栄一警視総監が、夜の上野公園を視察に行って、オカマにブン殴られたりする時代であった。警視庁の課長たちにも、仲々のサムライが多かった。

三十年一月四日夜。クラブで公安担当の私と、深江靖とで、目黒・衾町の課長公舎に、渡部正郎・公安第三課長(外事)の公舎を訪ねて行った。ほぼ、同年代だから、呑むほどに、酔うほどに、二人とも、ゴキゲンになっていったのである。

美人の誉れ高い、渡部夫人と四人で飲んでいるうちに、「オイ、ほかの課長の家にも、ストームをかけよう」と、いうことになったものだ。夜の十時か十一時ごろ、渡部と同期(昭20採用)の、木村善隆・交通課長と、中田茂春・防犯課長とが、私と深江に叩き起こされて、渡部家へと〝拉致〟されたものである。

書き初めをしていたお嬢さんを見て、「オレたちも書き初めだ」と、やり出し、半紙が無くなると、「奥さん、紙がないゾ」と、わめく。すると、渡部正郎はなんといったか! 「紙ならそこにある!」

指さす方を見てやると、ナナント、公舎の襖である。酔った勢いだから、得たりや応とばかりに、襖という襖に、下手クソな字を書きまくり、果ては、白壁にまで、深江は奥さんの似顔絵を、描きまくってしまった。

もちろん、私と、深江だけが〝共犯〟ではない。渡部も、客の二課長も、〝共同正犯〟である。そし

て、一緒になって、大笑いしている夫人——これだけ、デキた女房は、そうザラにはいまい。

読売梁山泊の記者たち p.114-115 「ミタボロフ。女がいないゾ」

読売梁山泊の記者たち p.114-115 水を呑みながら、やっと、課長公舎に泊まったところまで、記憶がよみ返ってきた。「なんだい。バカにしやがって! 警視庁記者が、女のいないところで、寝られるかってンだ!」
読売梁山泊の記者たち p.114-115 水を呑みながら、やっと、課長公舎に泊まったところまで、記憶がよみ返ってきた。「なんだい。バカにしやがって! 警視庁記者が、女のいないところで、寝られるかってンだ!」

もちろん、私と、深江だけが〝共犯〟ではない。渡部も、客の二課長も、〝共同正犯〟である。そし

て、一緒になって、大笑いしている夫人——これだけ、デキた女房は、そうザラにはいまい。

渡部は、その後、山形から代議士に一期出たのち、弁護士事務所を開いている。田中角栄弁護団にも参加した。この稿が終わって、単行本にしたならば、夫人に謝りに行かねばならない、と、考えている次第だ。

警視庁の公安三課長室で、その後、渡部に会った時、「オイ、あのあとの日曜日、襖の張り替えと、壁の塗り替えで苦労したぜ」と笑っていた——三十五年前の、警視庁記者と課長とは、こんな〝付き合い方〟だったのである。いまのクラブ記者には、信じられないのではあるまいか。

この〝乱痴気騒ぎ〟には、後日譚がある。とどのつまり、二人は酔いつぶれて、公舎二階の客間に、夫人が整えてくれた、新品の客ブトンに眠ってしまう。枕許には、水差しまで置いてある、というモテナシであった。

ところが、夜半、深江が、ノドが乾いて、目を覚ます。「オイオイ、ミタボロフ。女がいないゾ」と、私をゆり起こした。

水を呑みながら、やっと、課長公舎に泊まったところまで、記憶がよみ返ってきた。

「なんだい。バカにしやがって! 警視庁記者が、女のいないところで、寝られるかってンだ!」

どちらが、そういい出したのかは、いまとなっては、定かではない。ちなみに、前年の二十九年に、ソ連大使館二等書記官、というのは仮りの名、ラストボロフ政治部中佐が、アメリカに拉致されたか、

亡命したか。大きな事件が起き、私がスクープした「幻兵団」が、具体的に裏付けられた。

あの、冷たいといわれる原四郎でさえも、

「三田! 幻兵団も、やっと〝認知〟されたぞ!」と、大ニコニコで、私に、話しかけてきたほどである。それで、私は、通称〝ミタボロフ〟と、呼ばれていた。

私たち二人は、如何にして〝脱獄〟するか相談して、窓を開け、新品の客ブトンを庭に放り投げた。一人分が、敷二枚、掛二枚だったろうか。二人は、二階から、そのフトンの山に飛び降り、塀をのりこえて、道路に出たが、その時は気付かなかったけれども、もちろん、ハダシであった。

深夜、パトロールにも見とがめられず、タクシーを拾って、新宿遊廓へと飛ばした。そして、翌五日のひるごろ、やっと目を覚ましたが、ハタと困った。クツがないのである。

五日は、御用始めである。警視庁へ電話して、「公安三課長の別室」という。警視庁の課長はエライもので、巡査部長の運転手と、女子職員がついている。

「若松クン? 今朝、課長、迎えに行った? ソウ、なにか、預かりもの、なかった?」

「クツでしょう。まあまあ、フトンを庭に投げ出して、雪も降らなかったから、いいようなもンですが、で、どこにいるんです」

「シ、ン、ジュ、ク…」

「新宿? で、どこに届ければ…」

「ユ、ー、カ、クのナントカ樓…。新宿通りから、右へ入って…」

読売梁山泊の記者たち p.116-117 花電車はまさにゲイジュツ

読売梁山泊の記者たち p.116-117 原四郎も、そういう趣旨で、警視庁クラブと一パイやることになった。二里木孝次郎の発案だったと思うが、「ハラチンは、気取っているから花電車でも見せてやろうや」ということになった。
読売梁山泊の記者たち p.116-117 原四郎も、そういう趣旨で、警視庁クラブと一パイやることになった。二里木孝次郎の発案だったと思うが、「ハラチンは、気取っているから花電車でも見せてやろうや」ということになった。

五日は、御用始めである。警視庁へ電話して、「公安三課長の別室」という。警視庁の課長はエライもので、巡査部長の運転手と、女子職員がついている。

「若松クン? 今朝、課長、迎えに行った? ソウ、なにか、預かりもの、なかった?」

「クツでしょう。まあまあ、フトンを庭に投げ出して、雪も降らなかったから、いいようなもンですが、で、どこにいるんです」

「シ、ン、ジュ、ク…」

「新宿? で、どこに届ければ…」

「ユ、ー、カ、クのナントカ樓…。新宿通りから、右へ入って…」

当時、官庁の公用車は、ナンバー・プレートが三万代で、公用車をそう呼んだ。三万何千という、五ケタの車は、極めて目立つ。

小一時間ほどで、ナントカ樓の表に、その三万代の車が、ピタリと止まった。妓たちは明け方に現れたハダシの客に、公用車の迎えがきたので、ビックリしていたものだった。

よく働き、よく遊ぶ——これが、読売社会部の伝統であった。果たして、いまは、どう変わっただろうか…。

やはり、警視庁クラブ時代のエピソードをもうひとつ。社会部で、キャップのいる出先きクラブというのは、警視庁、裁判所(司法クラブ、検察庁も担当する)、都庁、労働班だろうか。

新任の社会部長は、これらの、出先きクラブを〝ご巡幸〟する、ならわしがある。一堂に会して、酒を呑み、懇親を図るとともに、百人からいる部員たちと、話し合う機会にするのだ。

原四郎も、そういう趣旨で、警視庁クラブと、一パイやることになった。多分、保安課を担当していた、二里木孝次郎の発案だったと思うが、「ハラチンは、気取っているから花電車でも見せてやろうや」と、いうことになった。

いまは、東京都内では、花電車など、見られないのかも知れない。花電車というのは、まさに、ゲイジュツである。女性特有の括約筋を利用して、さまざまな〝芸〟を見せるショーのことを、そう称

する。

私も、さきごろ、地方の温泉の兵隊仲間の会で、三十有余年ぶりに〝拝観〟して、この原四郎のことを、書く気になったのである。やがて、数カ月後に、府立五中のクラス会に私が幹事で、再び、その〝芸〟者を招いて、鑑賞したものであった。

というのは、三十年前に比べて、技術が大変に進歩していたので、これはもはや、〝伝統芸能〟である、と確信した。もちろん、ワイセツ感など、まったくない。

その五中のクラス会には、東北の有名クリスチャン校の校長先生とか、三和銀行、三菱銀行の常務から、有名上場会社の社長になっている連中まで、〝芸術〟に縁遠い級友たちが出席し、絶賛したものであった。

二里木は、本庁の保安から、浅草署の保安に電話させて、会場の設営をした。ギョーカイに通じれば、シロシロ、シロクロ、ワンシロといった、純粋のショーも見られる。いうなれば、シロは女性、クロは男性、ワンとは犬である。これらは、芸術とは、縁遠い。

路地裏の、とあるシモタヤの一室。二階に上がる階段まできたら、アヤシ気な声が聞こえてきた。原部長を案内してきた私は、フト見てビックリした。ハラチンが、指にツバをつけて、障子穴から覗いているではないか?

無言で促して、われわれの部屋に入る。薄暗い電燈の六帖間。〝女優〟サンが現われて、演技を始め た。

読売梁山泊の記者たち p.118-119 伊達男そのもののハラチン

読売梁山泊の記者たち p.118-119 大ゲサにいうならば、そのバナナのスジはピタンという、大きな音を立てて、原四郎のホッペタにひっついた、感じであった。それに気付いて、みんなは、爆笑しようとした。
読売梁山泊の記者たち p.118-119 大ゲサにいうならば、そのバナナのスジはピタンという、大きな音を立てて、原四郎のホッペタにひっついた、感じであった。それに気付いて、みんなは、爆笑しようとした。

無言で促して、われわれの部屋に入る。薄暗い電燈の六帖間。〝女優〟サンが現われて、演技を始め

た。型通りに、まずは、皮をムいたバナナの輪切り。つづいて、ユデ玉子のカラをとって、玉子飛ばしである。

事件は、この瞬間に起こった! といっても、「御用だ!」と、刑事たちが、乱入してきたのではない。なにしろ、本庁保安課の、〝官許〟だからである。

彼女が、ヤッとばかりに、二メートルほども、気合とともに、ユデ玉子を飛ばした時、内部に残っていたバナナのスジが、玉子の肌に付着して飛び出し、ハラチンのホッペタにピタンと、ひっついたのである。

すでに紹介したが、長身にダブルの背広を着こなし、ややアミダに冠ったソフトの両びんには、ロマンスグレーの髪がのぞけて見える。まさに、ダンディー、伊達男そのもののハラチンである。

一度も、原のワイ談を聞いたことはない。そのハラチンに、花電車を見せて、どんな反応を示すか、が、われわれ警視庁クラブ員の最大の関心事だったのである。従って、見馴れた花電車よりは、多くの記者たちは、原の表情に、注意を向けていたのである。

大ゲサにいうならば、そのバナナのスジはピタンという、大きな音を立てて、原四郎のホッペタにひっついた、感じであった。それに気付いて、みんなは、爆笑しようとした。ピタンの瞬間だけ、原の表情には、この際、どんな態度を取るべきか、といった、困惑が走った、と、私は見てとった…。

だが、次の瞬間には、原の表情は、真実のみを見つめようとする、新聞記者の眼に戻っていた。も

っとも、さり気なく、片手で、バナナのスジを、拭き取ってはいたが。

爆笑というのは、〝吹く〟というように、まず、大きく息を吸いこんでから、吹き出すのである。みんなの爆笑は、吸いこんだままで、止まってしまったのである。

ある意味で、座は白けてしまった。もう、花電車のコースは、なんの感興も呼ばなかった。原にとっての、花電車ショーは、多分、この時、一回だけであったろう。しかし、彼は、座興として、これを見なかった。

あるいは、ルポルタージュを書く、記者の眼で、展開される現実を、シッカと、見ていたのかも知れない。

竹内四郎が、遊びにきた部下たちとのマージャンで、賭け金を捲き上げ(もっとも、それ以上に、御馳走を並べていたが)、新聞休刊日の全舷上陸(旅行)に、愛人の芸妓を伴うなど、人間まる出しであったのに比べると、原四郎は、まったくの〈新聞記者〉であったというべきだろう。

しかし、その原四郎が、読売新聞の興隆期を、紙面で指揮していたことは、事実なのである。そしてまた私も、原という〝伯楽〟のもとで、大きく成長したのであった。

古き良き時代の記者像をもう一つ紹介しよう。

かつて、大阪読売の編集局長栗山利男(読売取締役)が、編集局長の原四郎にたずねたという。「誰か、パチンコ狂はいないか?」と。

読売梁山泊の記者たち p.120-121 〝腕〟が立派に拾われている

読売梁山泊の記者たち p.120-121 競馬狂Fの才能に感嘆した栗山が、「普通の状態では、東京が大阪へと手放してくれる記者ではない。優秀な記者がもっとほしいものだ」といって、今度は〝パチンコ狂はいないか〟と原にたずねた。
読売梁山泊の記者たち p.120-121 競馬狂Fの才能に感嘆した栗山が、「普通の状態では、東京が大阪へと手放してくれる記者ではない。優秀な記者がもっとほしいものだ」といって、今度は〝パチンコ狂はいないか〟と原にたずねた。

かつて、大阪読売の編集局長栗山利男(読売取締役)が、編集局長の原四郎にたずねたという。「誰か、パチンコ狂はいないか?」と。

この言葉には、解説が必要である。Fという有能な整理記者が、東京読売にいた。ところが、これがまた、大変な競馬狂で、仕事以外は、競馬のことしか念頭にないのである。そのキャリアは、累積赤字四百万円に達したというのであるから、想像を絶しよう。

もちろん、負けに負けつづけた、というものではない。勝つ時もあるのだが、その時は景気良く、派手に使ってしまうのだから、負けた時の借金が、累積してゆくのだ。

ありとあらゆる所から借りつくして、さすがに、身動きができなくなってしまった。かくして、Fは読売を退社して、その退職金四百万円を投げ出し、一度、借金を整理することとなる。借金と退職金がツーペイである。

これでは家族も困ろうと、友人たちが、高利貸しを口説いて、利子をまけさせ、四十万円を捻出した。その退社の日たるや、けだし壮観であった、という。

Fの敏腕を惜しんだ、上司たちの肝入りで、貸し主たちが呼び集められた。積み上げた退職金から、順次に〝支払い〟が行なわれ、残った四十万円が自宅へ届けられた。だが、Fは悠然として、この四十万円で競馬に出かけ、倍の八十万円にして帰ってきた、という次第だ。しかも、身辺整理の終わったFは、大阪読売に迎えられて、華麗な見出しで、紙面を飾っている。

Fの才能に、感嘆した栗山が、「とても、普通の状態では、東京が大阪へと、手放してくれる記者ではない。大阪の陣容強化のため優秀な記者がもっとほしいものだ」といって、今度は競馬狂ではなくても、〝パチンコ狂はいないか〟と、原にたずねた、というものである。

自分で掘った〝墓穴〟、と嘲う者もいよう。しかし、朱筆の一本に、絶大な自信がなくて、どうして退職金のすべてを投げ出せようか。

私がいいたいことは、この記者の、行動についてではない。それぞれの家族もあり、家庭内の事情もあったろうから、退職金を投げ出すことについての、若干の感慨もあったであろう。個人的な事情とはいえ、退職金までもゼロにして、社をやめるという〝壮絶〟な出処進退をとりあげたいのだ。そして、その〝骨〟ならぬ〝腕〟が、立派に、拾われている、ということだ。

「畜生メ、辞めてやる!」これが、かつての読売の伝統であった、といわれる。原稿を書こうが、書くまいが、クラブで終日、麻雀を打っていようが、週給のように、会社は、記者手当だ、なんとかだ、と、金を呉れるから、サラリーマン記者は、気楽なモンだ、ときたもんだ。なかなか、辞められない。

私が、安藤組事件に連座して、退社した時には、立松事件の後遺症で、紙面への制約がうるさかった。その反動のクーデターで、社会部は事件だ、を立証しようとして敗れた。

いま、テレビ朝日のキャスター・内田忠男も、ロス特派員の時に、「辞めてやる!」と叫んだ。私の場合、三十八歳だったから、辞表が出せた。四十歳過ぎなら、考えただろう。

古き良き時代の、ある新聞記者像——として、エピソードを紹介したのは、いまや、読者のみならず、大新聞記者の多くの人たちには、もはや、理解できなくなってしまった、この〝社を辞める〟という感覚を、取りあげてみたかったのである。

読売梁山泊の記者たち p.122-123 「記事でとっている読者が5%」発言

読売梁山泊の記者たち p.122-123 小島は、その愛称から、〝忠犬ハリ公〟と呼ばれたように、正力松太郎の番頭であった。「読売の読者のうち、〝社主の魅力〟でとっているのが40%、巨人軍でとっているのが20%、『記事が良いからとっている』というのは、わずか5%」
読売梁山泊の記者たち p.122-123 小島は、その愛称から、〝忠犬ハリ公〟と呼ばれたように、正力松太郎の番頭であった。「読売の読者のうち、〝社主の魅力〟でとっているのが40%、巨人軍でとっているのが20%、『記事が良いからとっている』というのは、わずか5%」

名文家として知られた、高木健夫(故人)が、昭和三十年に書いている、「読売新聞風雲録(原四郎・編)」中の、「社長と社員」の稿にも、「畜生! 辞めてやる!」と口走るのが、事実、読売の伝統であったと、正力松太郎陣頭指揮時代の社風が、そのようにうかがわれるのである。

あまりにも人情家だった景山部長

その原が、七年の長きにわたって、社会部長であった時、十三年七カ月にわたって、編集局長であったのが、小島文夫(故人)である。通称ハリさん。小島編集局長時代に、これらの、「畜生! 辞めてやる!」の伝統が次第に薄れていったようである。

《正力社長の早朝出社は有名で、一般社員より一時間早く出て、社内を一巡する。この時だだ広い編集局に、ただひとり、クズ鉛筆などを拾っている男がいる。

『あれは誰だ?』

『小島文夫という男です』

『学校は、どこかね?』

『社長の後輩、東大です』

『あいつを部長にしたまえ』

(遠藤美佐雄「大人になれない事件記者」より)》

小島は、昭和四十年十一月十五日、専務・編集主幹と昇格した直後に、社の玄関で倒れて逝ったが、その通夜の席で、記者たちはささやいた。

「ハリ公は、なにがたのしみで、新聞記者になったのだろうか…」と。

彼は、その愛称から、〝忠犬ハリ公〟と呼ばれたように、正力松太郎の番頭であった。その端的な実例がある。「いわゆる務臺事件」(注=務臺光雄名誉会長が、読売を辞めるべく、姿を隠した事件)後の、昭和四十年六月、夏期手当をめぐる交渉委員会での、発言記録だ。

・会社—会社の調査では、読売の読者のうち、〝社主の魅力〟でとっているのが40%、巨人軍でとっているのが20%、『記事が良いからとっている』というのは、わずか5%ぐらいだ。

・組合—記事でとっているのが5%だ、というのが、編集の最高責任者の言葉とすると、あまりにひどい。これでは、みんな記事を書く気も、働く気もしなくなる。

・会社—社主の魅力が大きい以上、そうした記事(注=いわゆる、正力コーナーと呼ばれて、当時、紙面にひんぱんに登場した、正力動静記事のこと)は扱わなければならない。批判的な読者の声も、ほとんど聞いていない。(組合ニュース第11号、六月十六日付)

この、「記事でとっている読者が5%」発言は、当時、全社的憤激をまき起こし、小島は引責辞職に追いこまれそうになったが、組合ニュース第14号によれば、「会社側から陳謝」となって、危うくクビ

がつながった。これをもってして、小島の人柄が判断されるだろう。