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正力松太郎の死の後にくるもの p.212-213 戦後の読売には「社長」はいない

正力松太郎の死の後にくるもの p.212-213 正力追放間の「代表取締役」安田庄司もまた、副社長である。高橋もまた同じで、現在の務台、小林は、ともに「代表取締役副社長」であって、いずれも、「社長」ではない。つまり、正力に対する礼儀からいっても、社長は常に空席なのである。
正力松太郎の死の後にくるもの p.212-213 正力追放間の「代表取締役」安田庄司もまた、副社長である。高橋もまた同じで、現在の務台、小林は、ともに「代表取締役副社長」であって、いずれも、「社長」ではない。つまり、正力に対する礼儀からいっても、社長は常に空席なのである。

戦後の読売には、正力の留守居役であった馬場恒吾を除いて、「社長」はいないのである。社員名簿が、それを雄弁に物語る。しかも、正力もまた、社長の地位にはついていない。戦犯容疑で巣鴨に収容され、釈放。つづいて、追放指定、同解除となってからもである。

戦後はじめて、名簿がつくられたのが、二十三年二月現在のものだが、「有限会社」時代で、「代表取締役社長」に馬場がおり、他にヒラ「取締役」が五名。二十四年度は、馬場は変らず、取締役主筆に安田庄司、常務取締役に武藤三徳、ヒラ取四人に監査役が加わる。

二十五年度は、「株式会社」となったが、馬場が社長で、安田が副社長。ヒラ取が六人にふえて、この時はじめて、務台がヒラ取で名を出した。二十六年度は、馬場が顧問となって、安田が「代取副社長」、武藤常務の名が全く消えて、務台が代って常務になった。ヒラ取も一人ふえて七名になる。

二十七年度。安田副社長、務台常務は変らずで、ヒラ取がまた一名増の八人。ただし、馬場顧問と並んで高橋雄豺が顧問に列した。二十八年度も、この陣容のままで、二十九年度は、監査役が一名増の二名になっただけ。

ところが、三十年六月十五日現在の社員名簿になると、第一行目に「社主、正力松太郎」の名が加わり、「代表取締役副社長」高橋雄豺、「代表取締役専務」務台光雄の連名となる。翌年には、ヒラ取から二名が常務になって、このまま推移してゆく。

この経過で明らかな通り、正力の公職追放もあって、内務官僚で四年後輩の高橋を副社長に据えて、正力は「社主」という新らしい地位(呼称というべきか)に、ついたのであった。その時の用意に高橋は三年前から顧問の地位にあったのである。新聞社の役員は、新聞業務の経験者でなければならない。小林与三次が官を辞したあと、若干期間、主筆として勤務したのちに、取締役になったのと同じである。

正力追放間の「代表取締役」安田庄司もまた、副社長である。高橋もまた同じで、現在の務台、小林は、ともに「代表取締役副社長」であって、いずれも、「社長」ではない。つまり、正力に対する礼儀からいっても、社長は常に空席なのである。

さて、ポスト・ショーリキで、果して、務台は、人と争い、抵抗を排除してまで、「社長」の地位を得ようとするのであろうか。務台文書の中にも、「昔から、派閥のある新聞は、必ず読者と世間の信用を失い、やがて没落の運命を免れないのであります」(25・3・11付「新聞通信」務台演説)と、自ら講演している務台が、事実上の〝社長〟の地位にありながら、単なる「社長」の名を求めてその晩節を汚すの愚を、あえてするであろうか。

務台の地位と存在とを、客観的に評価するならば、かの四十年の務台事件によって、正力がまだ健在であった当時ですら、「務台あっての」「正力の読売」であることを、内外に認識されたのではなかったか。どうして、その女婿小林副社長と争う必要があろうか。それこそ、毛を吹いて

傷を求むるの愚、といわざるを得ない。