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新宿慕情 見返し /カバーそで 推薦文・原四郎
正義感とリリシズム
読売新聞副社長・編集主幹 原 四 郎
三田和夫君こそ典型的な読売社会部記者であった。そして身体には、いまもなお、読売社会部記者魂が、脈々と流れている。輝かしい足跡を残した彼は、横井殺害未遂事件を執ように追った後、読売を去った。だが、彼の強靭なペンは、さらに冴え、磨き抜かれ、正論新聞の主幹となって結実した。その正論新聞創刊十周年を記念して上梓された本書は、一貫して流れる正義感とリリシズムに充ち溢れ、読むものの心を捉えて離さないであろう。
新宿慕情 扉 装丁・原徳太郎
新宿慕情 はしがき扉 装丁・挿画 原徳太郎
新宿慕情 p.004-005 「正論新聞」は息も絶え絶えであった
はしがき
私が、「正論新聞」という、小さな一般紙をはじめてから、早いもので、もう十周年を迎えることになった。
大判一枚ペラの「正論新聞」は、昭和四十二年元旦号から創刊された。だれもスポンサーはおらず、私が、取材して原稿を書き、読売の友人が整理をしてくれた。妻が事務を取り、長男の高校生が、友人たちを集めて、有楽町駅前で撒いた。
旬刊の目標だったが、まったくの独力なので、二、三号出すと資金がつきた。私はまた、雑誌原稿を書き、稿科を貯めた。第三種郵便物の認可も、既刊三号を添えての申請だから、一向に取れなかった。
事実上の不定期刊で、「正論新聞」は、息も絶え絶えであった——そこに、日通事件が起こった。昭和四十三年夏のことだった。
この日通事件を、政治検察の動き、と見て取った私は、直ちに、「検察体質改善キャンペーン」を始め、検察派閥の攻撃記事を掲載して、有楽町と霞が関、そして、検察ビルの門前で撒いたのだった。
検察が、戦前からの流れで、思想検事と経済検事との派閥対立を抱えており、それが、政治と結びついて、弊害を生じていることは、新聞記者をはじめとして、有識者にとっては、周知の事実であった。
だが、だれもが、それを公然とは非難しなかった。新聞もまた、批判の筆を振るおうとはしな
い——同じように、国家権力の執行者でありながら、警察に対しては、あれほど、威丈高に書く新聞が、どうして、検察には、卑屈なほどに恭順なのか?
私の「大新聞批判」のきっかけは、ここにあるのだが、私は、意を決して、検察批判を行った。前後二回、丸二年の司法記者クラブ詰めの体験から、「正論新聞」の記事は、具体的で説得力があった。この〈聖域〉に、戦後、初めての批判が加えられたわけだった。
——「正論新聞」が、評価されたのは、この検察批判を敢行したことにあった。いわゆる〝ブラック・ジャーナリズム〟との本質的な差違は、ここにある。「新聞」と「ビラ」との違いである。
時代の流れでもあろう——「正論新聞」のこの反権力の姿勢を、検察首脳は、率直に認めて、弾圧に代えるに自省を以てした。数代の検事総長は、報復人事をやめて、「正論新聞」の指摘した、派閥対立の解消に心を砕いた。しかし、私自身は、批判を快しとしない現場の検事たちに、仇敵視され、身辺を秘かにうかがわれたものだったが、無事、今日にいたっている。
私が、このように、「正論新聞は、力のない弱者の味方です。庶民の率直な気持ちを紙面に反映し、権力、暴力など、力に屈しません」(同紙信条より)と、〈新聞と新聞記者の原点〉に立ち戻れたのは、それなりのキッカケがあったのである。
昭和三十三年七月二十二日、私は、横井英樹殺害未遂事件で、犯人隠避容疑により、警視庁に逮捕された。
二十五日間の留置場生活を終えて、自宅に帰った私は、各紙の報道した私の事件に関する記事
を読んでみて、「書く身」が「書かれる身」になった現実に直面した。