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読売梁山泊の記者たち p.306-307 松本清張を著作権法違反で東京地検に告発

読売梁山泊の記者たち p.306-307 割愛せざるを得なかった。松本清張というインチキな人物が、河井検事と組んで、検察の正史を歪め(検察官僚論)、盗作、代作の限りを盡した(日本の黒い霧、昭和史発掘、深層海流など)事実を、私が告発している部分だから、である。
読売梁山泊の記者たち p.306-307 割愛せざるを得なかった。松本清張というインチキな人物が、河井検事と組んで、検察の正史を歪め(検察官僚論)、盗作、代作の限りを盡した(日本の黒い霧、昭和史発掘、深層海流など)事実を、私が告発している部分だから、である。

だが、昭和二十年代の、読売の興隆期に、名社会部長と謳われて、七年もその地位にあった、原四郎・元副社長が、平成元年二月十五日に亡くなり、いままた、務臺さんまでを失った時、亨さんが、

あのような姿でいることに、私は、まさに胸がついえたのだった。

務臺、原の両先輩の知遇を得て、「正論新聞」という小(こ)新聞を、読売退社後八年を経て創刊し、二十五年を閲した私の、渡辺・覇道社長への批判が、ほとばしり出たのだった。

原さんの没後、私は、「原四郎の時代」というタイトルで、正論新聞の第四面を埋めて四十二回の連載を書きつづけてきた。それは、今日の読売の隆昌を築き上げた、正力、務臺、原の三巨人に対する、鎮魂のことばであった。

およそ、八百枚もの原稿を、半分の四百枚に圧縮して、「鎮魂の詞」とせよ、といわれる、紀尾井書房、小林康男社長のご好意に、私はさらに甘えて、「序に代えて」という一章を加えさせて頂いた。

これは、「人物往来」誌(三年十二月号)に書いた、渡辺・覇道社長批判の一文なのだが、これまた、三十余枚の長文だったので、削りに削って、フンイキがややこわれてしまった。興味を持たれる向きは、原文にお目通し頂きたい。

それともう一点。「立松事件」の項で、河井信太郎検事と、その〝お庭番〟大竹宗美・文春嘱託記者、児玉誉士夫氏(いずれも故人)の三角関係について、私が知る限りの事実を書いた部分が、立松事件の流れに、直接、関係がないということから、割愛せざるを得なかったことを、読者にご報告しておかねばならない。というのは、松本清張というインチキな人物が、河井検事と組んで、検察の正史を歪め(検察官僚論)、盗作、代作の限りを盡した(日本の黒い霧、昭和史発掘、深層海流など)事実を、

私が告発している部分だから、である。

河井検事の〝お庭番〟の役を勤めていたのが大竹宗美記者で、彼は、同時に、松本清張の代作者でもあった。だから、河井検事を招いて、銀座の鶴の家で、松本に〝偏見にみちた検察〟論を語らせて、それを、裏付け取材することなく、文章化したのも、大竹であった。彼は、その席に立会した。

また、「昭和史発掘」に対して、各方面から〈盗作〉の非難が集中したが、その時、文春の出張校正で、勝手に加筆したり、削除していたのも大竹であったし、「深層海流」では、私の著書「東京秘密情報シリーズ」を、ひょうせつしたのも、大竹の仕業であった。

私は、松本を著作権法違反で、東京地検に告発した。文化庁の担当官などに、「盗作まちがいなし」という〝鑑定〟を受けてのことだったが、当時の東京地検次席検事であった河井は、自分の子分という、大熊昇検事(その直後病没)を担当として、「時効不起訴」の処分とした。起訴すれば、松本ばかりか、自分の〝側近〟の大竹をも、刑事被告人とせざるを得なくなる、からであった。そして、松本はただひたすら、逃げまくった——立松事件の仕掛人も河井。松本清張もまた同罪なのである。

さて、時代は大きく変わりつつあり、新聞もまた、変革を迫られつつある。専売店による宅配制度は崩れ始めて、すでに一部では、合売がすすんでいる。読売の一千万部近い日本一の部数は、専売店の宅配制のもとでのみ、可能だったのである。

さる十一月五日から、毎日新聞は題号までを変えた。それは、起死回生策なのであろうが、同時に、 時代の流れでもある。