「新聞記者は、疑うことではじまる」
この言葉は、読売の先輩、「昭和史の天皇」をまとめている辻本芳雄記者に、私が教えられた
言葉である。批判の眼を持つことである。抵抗の精神である。
〝記者として十分な基礎訓練〟とは、私は、この批判の眼、抵抗の精神を、徹底的に、自分自身に叩きこむこと、だと思う。
まず第一に、自分自身を批判する、自分自身の〝眼〟が、つねに、記者活動を監視している状態——自分に抵抗する精神がなくて、何で〝新聞記者〟と呼ばれようか。
私がルールを忘れたのは、実にこの点にあったのである。法を犯して記事を独占しようとしている、三田記者の行動を批判する〝三田記者自身の眼〟が、その時は〝見て見ぬフリ〟をしたのであった。
五人の犯人を生け捕り、毎日一人宛、捜査当局に逮捕させて、五日間の連続大スクープと、事件の解決功労者——この恍惚たる〝成果〟に陶酔しようとする、三田記者に対して、まず、〝三田記者自身が抵抗〟せねばならなかったのである。原局長をはじめとする先輩諸氏の訓育も、この〝記者冥利に尽きる成果〟の前には空しく、まず抵抗の精神が、マヒしてしまった。つまりルールを忘れたのであった。
この〝記者のド根性〟が、十分に叩きこまれているかどうかが、基礎訓練の度合いを示すものだと考える。批判の眼は、常に清潔でなければならないのだ。不正を憎み、不義に憤らねば、その眼は濁ってくる。抵抗の精神は、まず己れに厳しくあらねばならない。自分に抵抗することな
くして、何の〝抵抗〟であろうか。
私が、自分自身の〝事件〟を通じ、学んだことは、否、学び直したことは、やはり、このような〝記者のド根性〟であった。
しかし、〝記者のド根性〟が必要とされるのは、やはり、記者が「無冠の帝王」であり、新聞が「社会の木鐸」である時代であったようである。原の訓示が、若い記者たちに身ぶるいを起こさせ、共感の嘆声を発せしめ得なかったということは、そこに、局長と、局長以下との間に、「断層」があるということであろう。
私の経験をもってしても、「社会部長」というのは、大変にエライ人であった。昭和二十四年ごろ、団体等規制令という法律で、朝連(朝鮮人連盟)が解散を命じられたのだが、夕刊のない時代のことで、当時の法務庁記者クラブ詰めであった私ら三人の記者が、朝の早出をサボって、その事件を号外落ちしてしまったことがある。
恐る恐る社に上ってきた私らを、竹内四郎部長は、編集局入口付近で認めるや、はるかかなたの部長席から、大音声で怒鳴りあげたものであった。
「このバカヤローッ!」と。
ワン・フロア、仕切りなしの編集局で、この罵声であるから、局内の視線がすべて私らに集まったことはいうまでもない。