読売梁山泊の記者たち p.124-125 あのな、お前は、経済を勉強しろ

読売梁山泊の記者たち p.124-125 私の警視庁クラブ勤務はようやく〝満期除隊〟となった。当時の社会情勢を眺めていて、「これからの時代は、軍事記者だ」と、考えていたので、防衛庁詰めを希望した。
読売梁山泊の記者たち p.124-125 私の警視庁クラブ勤務はようやく〝満期除隊〟となった。当時の社会情勢を眺めていて、「これからの時代は、軍事記者だ」と、考えていたので、防衛庁詰めを希望した。

この、「記事でとっている読者が5%」発言は、当時、全社的憤激をまき起こし、小島は引責辞職に追いこまれそうになったが、組合ニュース第14号によれば、「会社側から陳謝」となって、危うくクビ

がつながった。これをもってして、小島の人柄が判断されるだろう。

小島のクビが危うかったことは、その前にもう一度ある。昭和三十二年秋の、例の「立松事件」の時である。売春汚職にからんで、社会部の立松和博記者(故人)が、「宇都宮徳馬、福田篤泰両代議士、 召喚必至」という大誤報を放った時である。

原が、社会部長から、編集局次長兼整理部長に栄転したあと、原は、僚友の景山与志雄を社会部長に据えた。古い社会部記者のタイプで、温情家であった景山は、部長になるや人事異動を行なった。

三年にわたった、私の警視庁クラブ勤務はようやく〝満期除隊〟となった。警視庁で、公安と外事を担当していた私は、当時の社会情勢を眺めていて、「これからの時代は、軍事記者だ」と、考えていたので、防衛庁詰めを希望した。

「あのな、お前は、経済を勉強しろ。〝虎を野に放つ〟ようなものだという、デスクの意見もあったが、通産、農林両省のクラブだ」

「…でも、先輩の長田さん(与四郎)が、古巣の通産に行きたがってましたから、私は防衛庁にやって下さい」

「イヤ、防衛庁は、堂場(肇)に決めた。ヒマなクラブだと思わず、経済の勉強をしろ。お前の将来のためだ」

「……ハイ」

私は、シブシブ承諾した。人生、なにがどうなるものか。景山に命令されて、通産、農林担当となった。ここは、経済部が主力で、社会部、政治部はヒマ。ほかには、地方部が忙しいクラブだったが、東電の正親見一常務と仲良くなり、「正論新聞」創刊の激励を受ける、という巡り合わせになる。

だが、この両省かけ持ちとはいえ、前に書いたように、「停電つづきの東電」と「値上げつづきの東ガス」だけしか、取材対象がないのだから、毎日、麻雀暮らしのクラブ勤務に、ドップリ浸っていた。

そして、一年後、特オチという失態を演じて、遊軍勤務という本社詰めに、配置転換される。私は、この時に、景山の〝温情家ぶり〟に感激したものであった。が、愛称カゲさんの温情が、社会部長という一等部長から、少年新聞部長という三等部長に降格される、「立松事件」を誘発する。

多久島事件というのが起きた——その名の農林省事務官が、何千万円という公金を使いこんで、当局に告発されたのである。その日の夕方五時ごろ、上司の安田農林局長が、農政クラブに現れて、記者会見して、「只今、告発して参りました」と、発表する。

地方部の小野寺記者が、クラブに在室していたので、その発表を聞き、私を探したが見当たらないまま、直接、社会部のデスクに、「こういう発表がありました」と、連絡を入れてくれた。

私は、その日、ずっと通産省の虎ノ門クラブに在室していた。私は、他社の社会部記者たちと、マージャンをしていたのである。負けがこんでいて、午後からずっと、マージャン台にかじりついていた。

そして、農林省で重大発表があったとも知らず、夜の九時ごろまで、各社の記者を放さなかった。