だが、務台のいわんとした答は、そんなものではなかったようである。
「朝日の五六〇万、これは押し紙(注。本社が販売店に押しつける部数)が多い。ある社などは、あ
えて社名を伏せますがネ。ABCレポートで、二十万部もの水増しをしているし、読売だけは、ホントの実販売部数です。私はABCの監査委員です。ですから、その部数を、承認しなかった。水増しのウソ部数を認めれば、ABCレポートに権威がなくなる。朝日の部数は確かだが、内容は、押し紙だ。ある社の水増しも、確証がつかめた——」
務台の話は、私が質問をさしはさむ余地すら与えず、とうとうとつづく。彼の脳裡には、もはや、毎日新聞のごときは、その存在すらない。
あるのは、大朝日五百六十万部のみであった。その差を、ジリジリと詰めて行く、冷酷なまでの〝販売の務台〟の姿であった。
正力松太郎。八十四歳。当時、熱海で静かに休んでいたが、彼の全生涯を打ちこんだ読売が、日本一の発行部数の新聞になることが、彼の夢であった。イヤ、「世界一の新聞」というべきであろうか。
正力の読売に賭けた夢のほどが、前述したテレビのクイズ「プラウダか読売か」の、寓話にしのばれるのであるが、今や、読売は、報知や福島民友などといった、系列紙の発行部数を加えなくとも、自前で「日本一」に迫りつつあるのだった。
そして、その〝正力の夢〟の完成は、もはや、務台に委ねられたというべきであろう。
「正力は、務台のただ者ならざる器を、見抜き、かつ恐れ、仲々枢機に参画させなかった時期も
あった」(40年3月20日「新聞情報」紙)見方も紹介した。評論家の耆宿(きしゅく)である岩淵辰雄は、馬場恒吾社長時代の読売で、招かれて主筆を数カ月つとめたことがあるが、彼もまた、そのような〝正力の不安〟を指摘する。
「安田庄司と武藤三徳とが組んだスクラムは、読売を正力から奪おうとした、一種のクーデターである。あの当時の金で五千万円を武藤は準備していた。正力が払いこめないのを見越して、増資しようというのである。この計画は失敗に終って、務台の復帰となる。私は務台にいった。『読売は、正力の〝モノ〟なのだから、正力に返してやるのが本当だ』と。務台も、もちろん賛成した。事実、あのころの正力は、非常に疑ぐり深くなっていて〝務台に読売を奪られる〟といった感じを持っていたようだ。しかし、務台はそんなケチな男じゃない」
と、岩淵は回想する。
「務台はただ一筋に読売の発展を祈念し、滅私奉公を信条として忠勤を励んできた。だから、務台光雄だけは(読売の重役商売ほどアホらしいものはなく、という前段をうけて)別格であったらしい」
と、前出の「新聞情報」紙もいっている。
私が、読売の驚異的な発展の理由を問うたのに対し、務台の即答をソツもなければ、味もないといったのは、この辺の〝今昔物語〟に由来しているのである。務台が、いわんとしていること は、「販売の何たるかを知っている」という務台の言葉である。