正力松太郎の死の後にくるもの p.128-129 新聞の部数を論ずるならば

正力松太郎の死の後にくるもの p.128-129 四十四年二月現在の数字で、読売は五二七・二万。これに対し、朝、毎は、五六〇・〇万、四四五・一万という部数。実に、読売が三百四十万を伸ばしたのに対し、朝日百六十万、毎日六十万の増加にすぎない。
正力松太郎の死の後にくるもの p.128-129 四十四年二月現在の数字で、読売は五二七・二万。これに対し、朝、毎は、五六〇・〇万、四四五・一万という部数。実に、読売が三百四十万を伸ばしたのに対し、朝日百六十万、毎日六十万の増加にすぎない。

この言葉は正確ではないかも知れぬ。だが、雰囲気だけは間違いない。務台は、青年のような熱気のこもった態度で、ある意味では〝ヤクザッぽく〟さえ感じられる〝新聞屋言葉〟で、追いこみ切れない朝日との実数差を口惜しがっていた。

それはちょうど、私たちが、下山事件で、三鷹事件で、他社との抜いた抜かれたを口惜しがり、社の付近の小汚ないノミ屋で、歯をかみ鳴らしながら、ブンヤ言葉で語り合うのにも似ていた。務台はつづける。

「私は、昭和二十六年一月、武藤三徳常務のあとをうけて、読売に帰ってきた。その当時は朝刊二頁、一枚ペラの新聞の時代だった。たしか、昭和十七年春ごろから、新聞用紙が統制になり、販売は共販だった。

私が昭和四年以来の読売へもどってきて、(注。昭和二十年十二月、正力社長辞任=巣鴨へ収監されたため=とともに、務台も辞めた)数カ月、二十六年五月には、用紙の統制撤廃となり、二頁朝刊は四頁に、さらにその十月には、三社協定で夕刊二頁の朝夕刊セット販売へと進んだ。

新聞の部数を論ずるならば、統制のワクが外され、自由競争へと移った、昭和二十六年五月の三社の部数と、現在部数との比率を見てもらわねばならない」

当時の読売は、東京本社だけで、一八六・七万、朝日、毎日両社は東京、大阪、西部、中部四本社制で、合計、それぞれ、四〇〇・二万と三八三・七万。読売の倍以上の部数であった。

それから十八年を経た、四十四年二月現在の数字で、読売は中部を除く三本社制となり、五二七・二万。これに対し、朝、毎は四本社制のまま、五六〇・〇万、四四五・一万という部数である。実に、読売が三百四十万を伸ばしたのに対し、朝日百六十万、毎日六十万の増加にすぎない。(注。数字は読売販売局発行パンフレットによる)

前稿で紹介した業界紙「新聞展望」の、朝日と読売の実数差十五万というのは、読売が名古屋本社をもたないので、その差が除かれている数字だ。私の調べた、ABCレポートによる、三社の全部数は、朝日五六〇・七万、読売五二七・二万、毎日四五三・八万ということになり、朝日、読売の差は、三十三万五千部ということである。

けだし、読売はこの十八年間で、朝日の二倍強、毎日の六倍弱の部数の伸びを示し、かつては倍以上の開きをみせていた朝日に、わずか三十三万の差で迫っているのである。

——この驚異的な伸びの原因は何ですか?

「紙面が、つねに時代と大衆にマッチしていたこと。それと、販売店が努力をつづけてやまなかったこと——」

答は即座にハネ返ってきた。ソツのない、そしてまた、〝味〟のない答であった。

だが、務台のいわんとした答は、そんなものではなかったようである。

「朝日の五六〇万、これは押し紙(注。本社が販売店に押しつける部数)が多い。ある社などは、あ

えて社名を伏せますがネ。ABCレポートで、二十万部もの水増しをしているし、読売だけは、ホントの実販売部数です。私はABCの監査委員です。ですから、その部数を、承認しなかった。水増しのウソ部数を認めれば、ABCレポートに権威がなくなる。朝日の部数は確かだが、内容は、押し紙だ。ある社の水増しも、確証がつかめた——」