もっとも、このようなボス記者の存在は、毎日だけのものではない。各大新聞社のいずれにも、能力がありながら、社内の系列からハミ出て、記者としての邪道を歩むもの、もしくは、それを本来の目的として、記者を手段として利用するものもある。たとえば、河野一郎の朝日政治部の農政記者から、山本農相秘書官、衆院選出馬といったコースである。ただ、このボス記者の例が、毎日には比較的多く、かつ、他社に比べて、そのボスぶりのスケールが大きいのである。
具体的に示せば、たとえば、警視庁の経済課長と一緒に組んで、砂糖のヤミをやった社会部次長やら、近県所在の自宅に近い小駅に急行を停車させるよう、ダイヤを改正させた運輸省クラブ記者とか、毎日の記者には、逸話の主が多い。これらは、やはり、派閥がもたらした奇型児記者で、しかも、いずれも記者としては志を伸べ得なかったが、退社して社会人として、成功している事実が、彼らの能力を物語っていよう。
私にも、いくつかの経験がある。昭和二十八年二月、前年暮に大事件となった鹿地三橋事件もほぼ落着いて、公判対策としての取調べが進められている時、三橋担当の一警部が鹿地事件の証拠品のハガキ(鹿地から三橋宛のレポ用葉書)を紛失してしまった。そのことを知った私は、完全に裏付け取材を終えてから、その警部の上司である、国警東京都本部警備部長に会いに行った。
この私のスクープが記事になれば、その警部は処分され、将来の出世が期待できなくなる。そんな思いがスクープを握ったよろこびとはウラハラに、私の気持を暗くさせていた。だが、警備
部長は、真向から事実を否定して、「そんな紛失事件などないのだから、部下が処分されることはない」と、言い張る。その〝石頭〟と非情さに怒った私は、記事を書き、本部警備部長が新聞発表をして事実を認め、警部は処分されてしまった。
その事件のあと、私は国警本部(今の警察庁)の幹部たちに、「あんな石頭が都の警備部長をしているなんて、部下が可哀想だ」と力説して歩いたところ、彼はのちにトバされてしまった。そのころは気付かなかったが、のちにいたって、新聞記者が、「一文能く人を殺す」力を持っていることを、改めて思い知らされたのである。
というのは、その年の夏ごろ、銀座のマンダリン・クラブの、国際バクチ事件から、衆院法務委で、フィリピンのバクチ打ちのボスの、テッド・ルーインが、当時のマニラ在外事務所長とのヤミ取引で、不法入国していることが問題となった。そのヤミ取引をした所長は、本省にもどっていた倭島アジア局長であった。この事件のため、倭島局長のヨーロッパへの大使転出の人事予定が御破算となって、東南アジアに変更され、倭島が私を憎んでいたと聞いたのであった。
このように、記者の発言や行動が、本人が意識するとしないとにかかわりなく、役人の人事に影響するところは大である。だから、もし積極的な意志をもって、役所の人事に介入しようとするならば、ことに、政治家と結んで、大新聞記者の肩書を利用するならば、「ボス」になることは容易である。