正力松太郎の死の後にくるもの p.152-153 毎日は見る読むに値しない新聞

正力松太郎の死の後にくるもの p.152-153 やがて、一匹狼のボスと化してゆく。これが、出先の記者クラブに定着し、「毎日新聞」の肩書をカサに、その役所の中の、隠然たるボスになり、利権に関係し、人事に介入し、実力者になる。
正力松太郎の死の後にくるもの p.152-153 やがて、一匹狼のボスと化してゆく。これが、出先の記者クラブに定着し、「毎日新聞」の肩書をカサに、その役所の中の、隠然たるボスになり、利権に関係し、人事に介入し、実力者になる。

朝・毎の政治新聞としてのスタートに対して、読売は、根ッからの大衆新聞として生れてきていた。そして、昭和十年代に躍進をつづけて、朝毎の牙城に迫り、二紙対立の時代から、三紙てい立の時期へと入ってきていたのである。その読売もまた、戦後に〝革命〟を体験していた。二

度にわたるスト騒ぎである。そして、その結果、朝日と同様の体質改善が行なわれていたのである。

毎日は、臆面もなく、軟派新聞の読売と、全く同じような紙面をつくり、真似をした時期があった。しかし、所詮はつけやき刃である。読売のあの独特の、親しみやすい紙面のもつフンイキは出せなかった。この、右顧左べんの間に、読者はグングンと減り、あわてて、本来の政治新聞の立場にもどって、朝日と対決しようとした時は、すでに大きく水をあけられ、もはや、狂瀾を既倒にかえすことはできなかった。

昭和二十三年十月、芦田内閣を崩壊させた昭電疑獄、昭和二十九年一月、山下汽船社長逮捕にはじまる造船疑獄と、この戦後の二大疑獄事件当時、すでに、三大紙の社会的評価は決定していた。というのは、知識人の間では「朝、眼を覚ましたら、まず読売をひろげて〝見る〟。そして、あとでゆっくりと、朝日を〝読〟む」とまで、いわれたものである。つまり、毎日は、全くのところ、見るにも読むにも、値しない新聞であった。

斜陽の道をたどり、急坂をころがりだすと、もはやとどまるところを知らない。そしてまた、〝貧すれば鈍す〟である。この時、毎日社内はどんな状態であったろうか。依然として、情実と派閥に明け暮れていたのであった。

一人の社会部長が動くと、百名ほどの社会部員の六割が移動したといわれる。動かない四割

は、いうなれば、能力のない連中、毒にも薬にもならない連中か、能力があればこその自信で、孤高狷介、親分を求めない連中で、紙面制作の上から、どうしても必要な奴である。そして、これらの連中は、いずれも出世はできなかった。

このような派閥の弊害は、〝人民委員長〟が〝天皇〟となったことに明らかである。本田派に対し、野党の反本田派が生れ、この与野党が、それぞれに各流各派に、また分れていた。そして、志を得ない、師団長はまだしも、連隊長クラスは、次第に子分に見放されて、孤立し、やがて、一匹狼のボスと化してゆく。これが、出先の記者クラブに定着し、「毎日新聞」の肩書をカサに、その役所の中の、隠然たるボスになり、利権に関係し、人事に介入し、実力者になる。事務当局をろう落して、大臣、政務次官らを恫喝する一方、大臣の人事権をバックに、事務当局にニラミを利かせるといった、手口である。

このようなボス記者は、もちろん原稿などは書かずに、もっぱら〝政治的〟に動くのである。そして、社内の派閥の師団長たちは、これらのボス記者に対し、人事権を発動して、彼らの棲息地である「クラブ」を奪ったりせず、逆に移動させないことを暗黙裡に認めて、師団長の〝出世〟に利用していたのである。つまり、彼らは、師団長に進級して、社内における敵になる恐れがないからであった。このようなボスもまた、前述の、移動しない記者のうちの、一つのタイプであった。