正力松太郎の死の後にくるもの p.220-221 「サンケイは『新聞』をかえます」

正力松太郎の死の後にくるもの p.220-221 サンケイ紙に目を通してみると、第一印象は、「週刊誌」化である。スポーツ欄は、男用に、テレビ欄は女用に。女子供用には、政治も経済も社会もない。いうなれば、完全な娯楽週刊誌の、日割り印刷物である。
正力松太郎の死の後にくるもの p.220-221 サンケイ紙に目を通してみると、第一印象は、「週刊誌」化である。スポーツ欄は、男用に、テレビ欄は女用に。女子供用には、政治も経済も社会もない。いうなれば、完全な娯楽週刊誌の、日割り印刷物である。

この、金久保、長谷川の交代が八月末で、つづいて九月中旬になるや、編集局内の異動が行なわれた。社会部長の青木照夫らが局次長に進み、最重要部の政治、経済、社会の三部長が新任と

なった。

青木は、原社会部長時代に、大阪社会部へ出たりもしていたが、生粋の社会部育ちとあってみれば、原直系といえよう。そして、後任に、世論調査室長で社会部出身の竹内理一をもってきた。竹内は「日本総点検」担当の論功行賞とみられるが、重症の〝原チン恐怖病患者〟といわれており、また、従来の政治部を徹底解体して派閥を破壊し、さらに、経済部長の河村隆をも局次長に登用したことによって、政治、経済、社会の三部を、完全に掌握した形となった。しかも、局長、二総務、三局次長のピラミッド形で、編集総務の為郷恒淳、鷲見重蔵が、間にはさみこまれるスタイルである。

このような、最近の人事の動きをみてみると、これは、務台—原体制強化である。と同時に、務台文書の趣旨を、故意にネジ曲げて読売の〝内紛〟を宣伝しようとする動きに対しての、無言の解答でもあろう。

務台の〝花道〟ともいうべき、大手町の一角に立ってみると「読売新聞社本社建設用地」と、大書された板囲いの中では、早くも工事が進められているのがうかがわれる。その用地の向う側には、サンケイ新聞の社屋があって、フンドシ(垂れ幕)が一本。

「サンケイは『新聞』をかえます」

八月の末ごろ、サンケイのPR版が都内に配られた。「九月一日から新紙面!」と謳ったそれ

にも、「サンケイは『新聞』をかえます」とある。

「どの新聞も同じようなもの——個性時代だというのに、日本の新聞は、このような批判をうけています。サンケイ新聞は、この批判にこたえる決意をしました。九月一日から、朝刊紙面を大刷新します。ありきたりの紙面改善ではありません。新しい時代が要求する新聞、読者が心から待ち望んでいる新聞、それをサンケイは一年以上にわたって、徹底的に追求しました。ほかの新聞と、どこがどうちがうか——」

そのPR版の冒頭の言葉である。これが、フンドシにいう〝新聞をかえ〟る、ということである。

ここがちがいます——新聞もどうやら、スーパーのバッタ商品のようなキャッチ・フレーズを使うまでに、〝身を落し〟たようである。試みに、九月十九日付サンケイ紙に目を通してみると、第一印象は、「週刊誌」化である。

全二十頁を、ご主人向き十二頁、奥さま向き八頁の二本立てにわけてある。スポーツ欄は、男用に、テレビ欄は女用にとなっていて出勤の時にもち出されても、自宅では困らない、というのが特徴である。

女子供用には、政治も経済も社会もない。いうなれば、完全な娯楽週刊誌の、日割り印刷物である。男用には、「連日世論調査」「行動する論説委員」「社説ではなく主張」の三本の柱がある。