このナゾときは簡単である。もはや、サンケイの名前では、資金の借り入れも、融通さえもつかなくなったので、ポン工を十億円の大会社にして、その名前で親会社サンケイの資金の面倒をみよう、という、〝金繰り新聞〟である。と同時に、新聞はフジ・テレビ(ニッポン放送、文化放送とも)系列化に「夕刊フジ」を残して、フジ・グループとして老残のサンケイは見捨ててしまおうという作戦であろう。そして、大阪のサンケイは発祥地だけに、独立して大阪地方紙として残る公算が大きい。
それほどに、〝四大紙〟を誇称していたサンケイの実情は悪いのだし、東京新聞が中日新聞に吸収合併される直前と同じく、アラシを予知したネズミが、貨物船から逃げだすように、有能な人材は、どしどしサンケイを去りつつある。
さて、サンケイの実情はさておき、本論の「新聞の週刊誌化」という、体質変化にもどって、読売の紙面へと移ろう。わずか、一日だけの紙面を問題にするのは、群盲象を撫するのソシリがあるかもしれないが、あまりにも顕著な実例であるから、その傾向を認めざるを得まい。
四十四年九月六日付朝刊。夫が服役中の二十二歳の妻が、愛人のガードマンのため、二歳の女の子を殺した事件があった日の紙面である。この日は、大宮でも、十九歳の二男が両親を殺したという、血なまぐさいニュースの日であったが、私が指摘するのは、〝子殺し〟の事件の前文である。
「母とは名ばかりの親
——福生町でおきた幼女殺しは、若い人妻の、ゆがんだ愛の残酷な結末だった。
幼いわが子を、なんの苦もなく〝消す〟残忍な行為、愛と断絶。この悲しい事実をどう受けとめればいいのか。……」
この一文を読んで、私は、原編集局長の統卒する読売編集局の現状に、想いを馳せたのである。
九月八日付朝刊、婦人面。堀秀彦が「ときの目」で、この事件をとりあげている。
「……二十二歳の母親の記事。残酷だとか、非道だとか、そんな言葉はもはやこの場合役に立たない。尊属殺人とか幼女殺しとかいった言葉も、私にはピッタリこない。絶望的といったらいいのか、文字通り末世といったらいいのか」
堀でさえ、〝残酷だとか、非道だとか、そんな言葉は役に立たない〟と、言葉を探すのに苦しんでいるのである。文章書きのプロがそうなのである。
そのとき、この前文を書いた「読売記者」は(多分、本社詰めの遊軍記者であろう)、何と書いたのだろうか。私が指摘したいのは「愛と断絶」という四文字である。これは、あの前文の中で、どんな意味をもち、かつまた、どのような文意なのであろうか。
この事件に、果して「愛」という言葉が使わるべき内容であろうか。百歩譲って、女とガードマンとの〝野合〟を「愛」と表現したとしようか。それにしても、「愛の断絶」でもない。つま
るところ「愛と断絶」の四文字は、文章作法上、何の意味もない、感覚的文字にしかすぎないのである。このような、日本語を乱した感覚的表現は、女性週刊誌が好んでしばしば使う文字であり、文章である。