かつての毎日新聞は、営業が鹿倉吉次(現最高顧問兼東京放送相談役、四十四年十月死去)。 編集が高田元三郎(現最高顧問)の両氏に代表されており、やはり、営業系列の人が実権を握っていた。つまり、編集出身者は、ゼニコに弱いという、経営者としての資格にかけるうらみがあ
ったからである。そして、東西合併後も、不思議と営業系列は一本化していたのに対し、編集は常にいくつかの系列にわかれて対立していた。これは、営業が実権を握るために、煽動していたのではないかとも、疑われるフシが、ないでもなかった。
そのように、営業畑が比較的波静かだったので、上田は、経理、広告、総務、人事などの部門を、順調に歩んできた。昭和九年ごろ、まだ三十歳の初期の青年上田常隆は、当時NHKで放送されて好評だった、友松円諦師の「法句経講義」に聞き入って、大いに開眼するところがあったという。この話からも判断されるように、その真面目で真摯な人柄が、次第に支持者をふやし、ことに、銀行筋の圧倒的信頼を集めていった。いうなれば、読売における務台副社長とも比肩される、銀行の支持だったのである。
上田社長は、その人柄ゆえに、社長となるや、直ちに、集団指導制の確立を図った。本田ワンマン時代の反動としても当然であるが、氏自身が、親分にへつらい、子分を養うタイプではなかったし、何よりも、彼の双肩には、「経営の建て直し」という、重大な使命が課せられていたからである。その第一声が、「社内民主化」であったということは、つまり、派閥という言葉をさけているが、派閥の存在を認め、その弊害が毎日の存立をおびやかした事実を卒直に承認した上での、派閥の打破であった。そのためにも、派閥の親分、師団長クラスを全部あつめて、その集団指導制をとり、その中で、派閥を序々にブチ壊してゆこうとしたかの如くみられる。つまり、河
野一郎を大臣にして、閣内協力のワクをはめるのと同じように、実力者たちで重役陣を編成し、各派閥の長老たちには「顧問」の地位を用意した。能力ある者が、その能力を「最大限に発揮できる」ように、「徹底的ディスカッション」による「集団指導制」——その安定の上にのった、社長としての「カジ取り」を考えたのである。
ここでまず、毎日と朝日、読売との、基本的な違いをみつめねばならない。つまり、毎日には、明治十五年以来、一世紀近い歴史がありながら、その歴史と共に歩んできた、資本家重役がいない、ということ。これを裏返せば、毎日経営陣は、これすべてサラリーマン重役なのである。株式はもちろん、社内株であるが、大株主をあげれば、販売店主の集まりで、社長がその会長をかねている、財団法人毎日会が一一・六%、前社長上田常隆一・一%、原為雄(相談役)、安部元喜(客員)各〇・九%、本田親男(元社長)、後藤弁吉(客員)各〇・八%という分布である。しかも、この数字を前年度以前と比べてみると、社長交代などの異動のたびごとに、常に動いているのである。
ところが、朝日では、村山長挙一二・〇%、村山於藤一一・三%、村山未知子、同富美子各八・六%(計、村山家で四〇・五%)、上野精一、一三・八%、上野淳一、五・七%(計、上野家で一九・五%)と、両家の合計は六割となり、この数字、比率は、戦後一度も動いていない。
また、読売の場合は、正力の個人持株を分離した、財団法人正力厚生会二〇・九%、正力松太
郎六・六%、小林与三次(副社長、正力女婿)六・二%、関根長三郎(正力女婿)五・五%、正力亭五・〇%(計、正力家で四四・二%)、務台光雄(副社長)四・〇%、高橋雄豺(顧問)三・四%となっている。