近くのレストランで、全員が会食して、お開きである。食事中の話題には、立松事件はまったく無
し。自動車部から車を呼んで、お送りする。
この、小野弁護士に関して、後日譚があるのである——正力社主の登場で、一件落着して、証人喚問対策会議は、あとにも先にも、この一回だけであった。だが、それからというものは、小野弁護士への謝礼を、いくらにするかということで、私と萩原は、東奔西走の日々を送ることになった。
なにしろ、読売側から、「弁護士選任を前提」として、会議に出席を願ったものだ。だが、発言は、「ウチの助教授たちに、研究させてみる」の一言だけ。
二人で手分けして、「小野清一郎への謝礼の適正金額」を、多くの人に相談してみたが一向にラチがあかない。私が、遠縁に当たることを奇貨として、法務省特別顧問室に二人で訪ねて、直か当たりすることになった。
ところが、これまた一言だ。
「私が、日本で一流の刑事弁護士だ、ということを、お忘れなければ、いかほどでも、結構です」
とうとう、困り果てた二人が、出した結論は、五十万円。奉書に包み、水引きをかけて届けに行ったら、小野弁護士は、ウラを返して数字をみて、「結構です」と、受け取ってくれたので、ホッとしたことを覚えている。
ところが、五十万円の伝票を持って、小島編集局長のハンコをもらうべく、机上に置いた時、局長は、あの〝周章狼狽〟を忘れたように、「エッ? あの一言だけで、五十万円もするのか?」と、卑しい発言をした。それを納得させるのに、またまた一苦労であった。
どうして、正力松太郎社主・衆議院議員が登場してきたのか、その経緯については、私には、まったく情報がない。
当時、正力社主に、対等に口を利ける政治家としては、賀屋興宣と岸信介ぐらいしかいない。このふたりの、どちらかが、読売にも宇都宮、福田両代議士にも、キズをつけないような、調停案を出したものであろう。
【図版キャプション】昭和32年12月18日(左)と同年10月18日(右)の朝刊紙面
読売の社会面トップ。昭和三十二年十月十八日付の、「収賄の容疑濃くなる」という、五段抜きの見出しと同じ号数で、「事件には全く無関係」という、同じ行数の打ち消し記事を掲載する、ということで、和解する。名誉毀損の告訴は取り下げる、という、調停案の内容が、私と萩原に伝えられた。
こうして、丸二カ月後の十二月十八日の朝刊に掲載された。和解ののち、あとは社内の処分が発表されただけだ。
景山社会部長は、一等部長から降格されて、三等部長
である「少年新聞部長」に左遷された。立松記者は、停職一週間。ともに、減俸がついていたような気がする。処分は、このふたりだけであった。