読売梁山泊の記者たち p.266-267 「小島局長に証言拒否ができるか」どうかのご高説を

読売梁山泊の記者たち p.266-267 当時、東大名誉教授で法務省特別顧問であった、小野清一郎弁護士をつけることになった。小野は、私の母方の従兄でもあったので、私も大賛成であった。小野弁護士は「そうですね。ウチの助教授たちに、研究させてみましょう」
読売梁山泊の記者たち p.266-267 当時、東大名誉教授で法務省特別顧問であった、小野清一郎弁護士をつけることになった。小野は、私の母方の従兄でもあったので、私も大賛成であった。小野弁護士は「そうですね。ウチの助教授たちに、研究させてみましょう」

立松もまた、そうしていた。ところが、彼のは、「○○検事にウイスキー」「××検事に果物」など、すべて、検事宅への夜討ちの手土産として、ズラリ列記しているのだ。

その大雑把さに、経理部が、レシート番号から、売り場を調べてみたら、婦人下着売り場など、伝票面とツジツマが合わない。そこで、社会部の伝票の〝一大検証作戦〟が行なわれて、原社会部長は、総務局長に文句をいわれたらしい。

社会部長席に戻ってきた原は、部員席を見渡して、たまたま、目についた立松を呼びつけた。私も、そこに居合わせたので、原の怒声を、ハッキリと聞いている。

「立松! このドロボーの、パチンコ屋の手伝い野郎メ!」

それから、立松の提出していた、取材費清算伝票を、彼に叩きつけた——この事件が、立松を深く傷つけたことは、事実である。前任の竹内四郎が、立松を可愛がっていたことはすでに述べた。多分、この伝票事件以来、立松は原に対して、敵意を抱いていたに違いない。

その、立松の「原四郎・観」を、本田は、無批判に、文章にしている。私とて、例外ではない。原に怒鳴られたことは、数多くあるが、救いは、それがその場限りで、アトをひかないことである。

本田のように、「原の権威主義的な統率」というのは、誤りである。彼が、私生活を社に持ちこまず、かつ、部下にも見せなかったように、「原は仕事第一の統率」であった。いい仕事をやる記者は、どんどん、重用していって、励みを与えてくれたのだった。

小島編集局長の、衆院法務委への、証人喚問という動きに対して、読売は、対策を講ぜざるを得ない。

というのは、立松のネタ元が、河井検事、当時は、法務省刑事課長であったことは、すでに、編集幹部はみな知っていた。その、河井検事がタイコ判を押した、宇都宮徳馬、福田篤泰両代議士の収賄容疑が、検事総長の花井忠によって、否定されてしまったから、である。

小島局長、原総務、景山部長、長谷川次長に、前任者の萩原記者、キャップの私を加えての、対策会議がしばしば開かれた。立松逮捕当時には、立松家に木内曽益(注=馬場法務事務次官の兄貴分)、立松記者に中村信敏、柏木博の三弁護士を、萩原、三田の相談でつけたが、立松が釈放になって、局長の喚問という、事態になったのだから、この三人では、適任ではない。

また、二人で相談して、当時、東大名誉教授で法務省特別顧問であった、小野清一郎弁護士をつけることになった。小野は、私の母方の従兄でもあったので、私も大賛成であった。

そうして、小野清一郎と、同じ事務所の名川保男、竹内誠の三弁護士を招いて、同じ顔触れの会議が持たれた。といっても、萩原と私とが、交代で、三弁護士に、経過説明をしたのだ。そして、「小島局長に証言拒否ができるか」どうかの、ご高説を拝聴しよう、というものであった。

ウン、ウンとうなずきながら、話を聞いていた、小野弁護士は、締めくくるように、いった。

「そうですね。ウチの助教授たちに、研究させてみましょう」

この一言を引き出すまでに、すでに二時間ほどが経っていた。そして、このあとはもう、小野発言が出てこない。その日の結論と判断した長谷川次長が、「食事のご案内を…」と、私にいう。

近くのレストランで、全員が会食して、お開きである。食事中の話題には、立松事件はまったく無

し。自動車部から車を呼んで、お送りする。