さて、翌二十二日、正午の出頭を控えて四階の務臺専務のもとに、挨拶にいった。その時、在社していた役員は、務臺さんだけだったのだ。
「キミ、話は聞いたよ。記者として、商売熱心だったんだから、仕様がないさ。記者の向こう疵さ。…すっかり事件が片付いたら、また社に戻ってきたまえ」
ニコニコ笑いながら、こういわれて、私はすっかり感激した。なにしろ、前夜、小島文夫・編集局
長に、電話で報告しようとしたら、その第一声が「キミ、金は取ってないだろうナ、金を!」という、情ない言葉だったのだから、務臺さんの「また、社に戻ってきたまえ」には、ジーンときたのだった。
そして、それから一年ほども経っただろうか。読売本社へ顔を出したところ、バッタリと、深見和夫・広告局長に出会った。
「オイ、三田。この間、務臺さんと同じ車に乗った時、『三田は、どうしているンだ』と心配されていたぞ。社に来た時は、挨拶に顔ぐらい出してこいよ」
こうして、私は、〝社外での務臺さんの一の子分〟を、自称するようになった。正論新聞の十周年では、多忙のなかを割いて、帝国ホテルのパーティで、鏡割りをしていただいたほどである。
そして、私の腕時計は、45・7・21ツー・ミタ・フロム・ムタイと、裏に刻みこまれたオメガ。もうすでに、二十年を越えているが、ほとんど狂わない。務臺さんの読売社長就任の時、記念に下さったものである。
中途退社したから、私は、社友ではないし社報も送られてこないし、名簿ももらえないのだが、務臺さんに認められている、ということが、私の〝勲章〟である。
こうして、私は、中村弁護士と萩原とにつきそわれて、警視庁に出頭した。捜査二課の石村勘三郎警部補係で、調べ室に入った。
夕方になったころ、石村主任はニヤニヤしながら、「ブン屋をしていたって、見たことのないものを見せてやるよ」と、一枚の紙片をさし出した。
「フーン。逮捕状か。アレ? オレの名前が書いてあるよ!」
「ドレ、ドレ。アーホントだ。じゃ、オメェさんを逮捕しなくッちゃ!」
調べ室の中の千代部長刑事も、二人の若い刑事も、みんな、大笑いした。その日は形式的な調べだけ。十名近い雑居房で、監房長官は、暴力団右翼のボス。私は〝安藤のために、読売記者を棒に振った英雄〟として、その客分扱い。
雑居房の上席は、入り口に近い所から、奥の便器の側へと、下がってゆく。私は、ボスの次の場所で、日曜、月曜と二日つづきの寝不足に、グッスリと眠った。
石村主任は、おもしろい男だ。藤井丙午・八幡製鉄副社長を逮捕しようとして、令状請求書を持って、朝、課長室に入る。所轄署なら、令状警部と呼ばれる警部で、裁判所に逮捕状を請求できる。しかし、警視庁では、課長の決裁が必要である。業務上横領の容疑であった。
「……」
課長は、ジロリと石村を見て、黙ったまま横を向いてしまう。デスクの正面には、石村も黙ったまま、直立している。手には、令状請求書を持っている。
課長は、横を向いて、サイドテーブルで仕事をすることになる。上のほうから、待てという指令がでているからだ。…こうした日が何日もつづいた、ということだ。
そして、ある日。彼は、推せん枠で警部に昇進させられ、制服を着て、方面本部の刑事官として、捜査の現場から外されてしまう。のちに、警視で退官し、平和相互銀行に入り常務にまで栄進した。