読売梁山泊の記者たち p.290-291 務臺さんの「また社に戻ってきたまえ」

読売梁山泊の記者たち p.290-291 その時、在社していた役員は、務臺さんだけだった。「キミ、話は聞いたよ。記者として、商売熱心だったんだから、仕様がないさ。記者の向こう疵さ。…すっかり事件が片付いたら、また社に戻ってきたまえ」
読売梁山泊の記者たち p.290-291 その時、在社していた役員は、務臺さんだけだった。「キミ、話は聞いたよ。記者として、商売熱心だったんだから、仕様がないさ。記者の向こう疵さ。…すっかり事件が片付いたら、また社に戻ってきたまえ」

「そんなバカな! ヤクザじゃあるまいし、カタギの人間が、ワケも聞かないで、小笠原を預かった

りするもンか!」

警察取材が長く、親しい警察官も、警察官僚にも友人が多くいるのだが、この言葉には激怒を覚えたものだった。

新井裕もまた、「幻兵団」の調べ官、二世のタナカ中尉と同じように、「記者の功名心? …信じられない…」と、いった。その心は、安藤組との深いつながりや、金の関係などを、疑っているようだった。

同席していた、捜査二課長は平瀬敏夫。若い彼は、一言も発せずに、私と新井裕とのヤリトリを聞いていた。

この新井は、のちに、警察庁長官にまで進む。が、私は彼を糾弾する。昭和五十年六月四日付の「正論新聞」一面のトップ記事である。

「大林組〝夜の社長〟と元警察庁長官」という大見出しである。大林組に寄生して、女の世話までしながら、同社の全資材からマージンを取っていた、福島県出身の代議士の息子がいた。菅家(かんけ)というこの男は、福島民報の記者だったが、当時の県警本部長の新井と親しかった。

多分、新井は、そのころ、日本航空顧問だったと思う。大林組が青山に落成させたばかりのマンションに、この菅家と新井とが、隣りあわせで入居していたのだった。つまり、菅家と新井のゆ着である。全国に作業所を持つ大手土建は、それぞれ、各地で事故を起こしたりするので、モミ消しには警察庁長官を利用していたのだろう。

刑事部長への経過説明のうちに、二課担当の子安記者が入ってきて、「二課ではビラを請求しました」と、耳打ちしてくれた。逮捕状のことである。

「新井さん。当然、強制捜査をされるんでしょうが、私としては、今朝、社会部長に辞表を出しました。これが、今日、受理されて、〝元読売記者〟になってから、逮捕されたいのです。いくらなんでも、現役記者のままでの逮捕では、社に迷惑をかけすぎます。…立松の場合とは、違うんですから、それぐらいの時間を下さい。こうして、自分から出頭してきているんですから」

交渉の末、社会部長が預かる形で、明日の火曜日正午に出頭する、ということで、決着がついた。

——明日の正午まで、丸二十四時間しか、自由の時間がないのだ。

社にもどる。辞表は持ちまわり役員会にかけられ、夕方には受理、発令された。仲間の萩原キャップが、「オイ、中村信敏弁護士を社でつけてやるからナ」と、気を配ってくれたのに、感謝した。

しかし、人間、落ち目の時にこそ、まわりの人の〈人間〉が目に見えてくる。

さて、翌二十二日、正午の出頭を控えて四階の務臺専務のもとに、挨拶にいった。その時、在社していた役員は、務臺さんだけだったのだ。

「キミ、話は聞いたよ。記者として、商売熱心だったんだから、仕様がないさ。記者の向こう疵さ。…すっかり事件が片付いたら、また社に戻ってきたまえ」

ニコニコ笑いながら、こういわれて、私はすっかり感激した。なにしろ、前夜、小島文夫・編集局

長に、電話で報告しようとしたら、その第一声が「キミ、金は取ってないだろうナ、金を!」という、情ない言葉だったのだから、務臺さんの「また、社に戻ってきたまえ」には、ジーンときたのだった。