その中の傑作は、三十九年十二月二日付朝刊社会面である。
「先生は大器にして大志を抱かれ、大智大略また大剛……。……また大悟大徳にして、大悲の大士、郷土大恩に浴して……大山を仰ぐ」
カンダカジチョウカドノカンブツヤノカチグリの新版である。これなんと、正力の銅像碑文の全文掲載であった。
あまりのことに、抵抗は本社社会部から起った。本社詰めの遊軍記者が十一時をすぎても出勤してこないのである。早く出てくると、ランド取材を命じられるからである。職制のデスク一人が幾つもの電話のベルに追い廻される破目になった。前記の〝大づくし〟記事を、省略して簡単な原稿にまとめ、それを整理部に廻した、記者とデスクは叱られた。たまりかねた社会部の組合執行委員の長済功記者が、「正力コーナー」を、正式に組合の議題としてとりあげた。
この経過は、さきに述べた通りであるが、こうして、異状な執着をみせた「衆議院議員」として、果して、正力は何をしたのであろうか。
原子力大臣として、初期の原子力行政に、その〝創意の人〟として、才能を振るったこととされているが、〝原子力の父〟としてのキャッチ・フレーズは、私をはじめ大方にもピンとこないであろう。
それよりも、代議士としての正力の功績を探るならば、議員武道連盟を母胎として、超党派で日本武道館を建設したことであろう。
そして、そこが、おのれの葬儀の場所になるであろうとは、正力も、そこまでは考えなかったであろうが、かつて、新宿西大久保に〝屋根つき球場〟建設を考え、その敷地を転用して、正力
タワーを発想しながら、ついに果さずして天寿を完うしたことを想えば、武道館の竣功こそ、最後の仕事だったのではあるまいか。議員として、もって瞑すべしである。
そして、武道館はまた、かつて読売東亜部におり、その後、長く浪人していた三浦英夫を常務として、経営的にも安定しているようである。巨人軍といい、武道館といい、大正力の死の影は、スポーツ関係では、何もないというのは、日本テレビ、報知と対比して、何と皮肉なことであろうか。
大正力の中の〝父親〟
最後に残ったものは、問題の「よみうりランド」である。生前の正力が、その建設を目して、〝私の悲願〟とまで叫ばせ、日テレに粉飾決算を強い、巨人軍の金田の契約金を分割にし、果ては、読売本社の経営を危うくするほどにまで、コンツェルン内部の現金という現金をかき集めて注ぎこみながら育てたのが、この「よみうりランド」であった。
しかも、「正力コーナー」として、その新聞人としての姿勢を糾弾されたのも、老いの一徹の〝ランド可愛いさ〟からであった。だが、この親の心は、子の誰にもわかってもらえなかった。