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正力松太郎の死の後にくるもの p.004-005 目次6~7 1章トビラ

正力松太郎の死の後にくるもの p.004-005 目次つづき 1章トビラ 1 正力さんと私(はじめに……)
正力松太郎の死の後にくるもの p.004-005 目次つづき 1章トビラ 1 正力さんと私(はじめに……)

6 朝日・毎日の神話喪失

朝日記者は〝詫び〟ないで〝叱る〟/朝日の紙面は信じられない/司法記者の聖域〝特捜 部〟/新聞代の小刻み値上/宅配は必らず崩れる/朝日はアカくない/振り子はもどる朝 日ジャーナル/銀行借入金、ついに百億突破/東京拮抗の毎日人事閥/〝外報の毎日〟はどこへ/はたまた〝外報〟の朝日か

7 ポスト・ショーリキ

「武を……」という遺言/報知、日本テレ、タワーが駄目……/大正力の中の〝父親〟/〝マスコミとしての新聞〟とは

あとがき

1章トビラ 正力松太郎の死の後にくるもの

1 正力さんと私(はじめに……)

正力松太郎の死の後にくるもの p.356-357 武道館の竣功こそ最後の仕事

正力松太郎の死の後にくるもの p.356-357 「衆議院議員」として、果して正力は何をしたのであろうか。〝原子力の父〟としてのキャッチ・フレーズは、ピンとこない。代議士としての功績を探るならば、超党派で日本武道館を建設したことであろう。
正力松太郎の死の後にくるもの p.356-357 「衆議院議員」として、果して正力は何をしたのであろうか。〝原子力の父〟としてのキャッチ・フレーズは、ピンとこない。代議士としての功績を探るならば、超党派で日本武道館を建設したことであろう。

その中の傑作は、三十九年十二月二日付朝刊社会面である。
「先生は大器にして大志を抱かれ、大智大略また大剛……。……また大悟大徳にして、大悲の大士、郷土大恩に浴して……大山を仰ぐ」

カンダカジチョウカドノカンブツヤノカチグリの新版である。これなんと、正力の銅像碑文の全文掲載であった。

あまりのことに、抵抗は本社社会部から起った。本社詰めの遊軍記者が十一時をすぎても出勤してこないのである。早く出てくると、ランド取材を命じられるからである。職制のデスク一人が幾つもの電話のベルに追い廻される破目になった。前記の〝大づくし〟記事を、省略して簡単な原稿にまとめ、それを整理部に廻した、記者とデスクは叱られた。たまりかねた社会部の組合執行委員の長済功記者が、「正力コーナー」を、正式に組合の議題としてとりあげた。

この経過は、さきに述べた通りであるが、こうして、異状な執着をみせた「衆議院議員」として、果して、正力は何をしたのであろうか。

原子力大臣として、初期の原子力行政に、その〝創意の人〟として、才能を振るったこととされているが、〝原子力の父〟としてのキャッチ・フレーズは、私をはじめ大方にもピンとこないであろう。

それよりも、代議士としての正力の功績を探るならば、議員武道連盟を母胎として、超党派で日本武道館を建設したことであろう。

そして、そこが、おのれの葬儀の場所になるであろうとは、正力も、そこまでは考えなかったであろうが、かつて、新宿西大久保に〝屋根つき球場〟建設を考え、その敷地を転用して、正力

タワーを発想しながら、ついに果さずして天寿を完うしたことを想えば、武道館の竣功こそ、最後の仕事だったのではあるまいか。議員として、もって瞑すべしである。

そして、武道館はまた、かつて読売東亜部におり、その後、長く浪人していた三浦英夫を常務として、経営的にも安定しているようである。巨人軍といい、武道館といい、大正力の死の影は、スポーツ関係では、何もないというのは、日本テレビ、報知と対比して、何と皮肉なことであろうか。

大正力の中の〝父親〟

最後に残ったものは、問題の「よみうりランド」である。生前の正力が、その建設を目して、〝私の悲願〟とまで叫ばせ、日テレに粉飾決算を強い、巨人軍の金田の契約金を分割にし、果ては、読売本社の経営を危うくするほどにまで、コンツェルン内部の現金という現金をかき集めて注ぎこみながら育てたのが、この「よみうりランド」であった。

しかも、「正力コーナー」として、その新聞人としての姿勢を糾弾されたのも、老いの一徹の〝ランド可愛いさ〟からであった。だが、この親の心は、子の誰にもわかってもらえなかった。

正力松太郎の死の後にくるもの p.358-359 ランドはもともとは関東レース倶楽部

正力松太郎の死の後にくるもの p.358-359 大正力の死のあと、ランドという興行師どもの集団の中では、武へのイヤガラセも表面化しているという。「正力さんには、確か、男のお子さんは一人だったと、聞いていたのですがねえ……」
正力松太郎の死の後にくるもの p.358-359 大正力の死のあと、ランドという興行師どもの集団の中では、武へのイヤガラセも表面化しているという。「正力さんには、確か、男のお子さんは一人だったと、聞いていたのですがねえ……」

ランドの御堂にインドから仏舎利を贈られれば、その記事を書かされた記者が、自嘲していった。

「ものの本で調べてみるとですね。世界中にバラまかれた仏舎利の、重さの合計は二トンになるそうです。すると、お釈迦さまというのは、大変な巨人だったのですね」と。

そのランドには、武が常務として送りこまれたが、もともとは、関東レース倶楽部という、競馬やオートレース屋の集まりである。読売の停年退職者も、何人かは入っているが、いずれも遊戯場の支配人程度の地位で、何の実権もないから、若い武にとっては、日テレの亨同様にハダカ同然の身の上である。

武に対する風当りは、特につよい。ことに正力の実の娘たちである、小林、関根両夫人などは、女性の本能的嫌悪感から、武のことを、正式には認めようとしないらしい。

しかし、武はその屈辱に堪えて、正力のセガレという立場をすてて、一人の実業人として生きようとしているらしく、第三者の評判も一番よいようだ。しかも、頭脳も気性も、大正力によく似ていて、武ならば、という支持者が多い。

だが、大正力の死のあと、ランドという興行師どもの集団の中では、武へのイヤガラセも表面化しているという。

「正力さんには、確か、男のお子さんは一人だったと、聞いていたのですがねえ……」

こんなイヤ味が、聞こえよがしに語られるという。しかし、とにもかくにも、代取副社長に、

正力の女婿関根長三郎という、興銀出身の、まともな人物がおり、監査役には亨夫人の父親、その他、読売系人物が取締役に名を連ねているので、ここばかりは、全く他人のモノになってしまう恐れはすくない。「タケシを……」という遺言に、私は、はじめて大正力の中に〝父親〟を感じたのである。最後に付言するならば、読売新聞という本拠は、今まで詳述してきたように、安泰であって、務台、小林両代取副社長制で、正力が生きていた当時と、全く同じような毎日が、明け暮れてゆくに違いない。

それよりも問題は、新社屋完成後の、ポスト・ムタイである。そのころまでに、小林が編集と業務を握り切れるかどうか。それが、読売新聞をどう変らせるか、にかかってきていよう。

〝マスコミとしての新聞〟とは

大正力の死につづく、正力コンツェルンの〝家庭の事情〟から、本論の明日の新聞界へと眼を転じてみよう。

さきごろ、某小日刊紙の座談会で、「新聞の内幕」というテーマが与えられた。「新聞は真実を伝えるか」にはじまり、「編集権と編集局長の権限」、「七〇年安保の論調予想」など、今日の新

聞の問題点について、〝新聞の現場の人〟三人が集まって、語りあったのである。